削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
7行目:
 
== 概説 ==
煉獄は、カトリック教会では天国には行けなかったが[[地獄 (キリスト教)|地獄]]にも墜ちなかった人の行く中間的なところでありとされ<ref>[[フェデリコ・バルバロ]] 『聖書』「マカバイの書下」第12章、註46</ref>、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。現行のカトリック教会の教義では、天国は「最高の、そして最終的な幸福の状態<ref>『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』(123頁)</ref>」、[[地獄 (キリスト教)|地獄]]は「神から永遠に離れ、永遠の責め苦を受ける状態<ref>『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』(125頁)</ref>」と定義されているが、「天国の本質が神との一致にあるとすれば、それは当然のことだが、人間は必ずしも終始一貫、神に沿って生きているとはいえず、罪を犯すこともあり、そのため死後に神と一致しようとする際には、自分の内にある神と異質なものは清められることになる。これが煉獄である<ref name="oshie"/>」と説明されている。
 
カトリック教会では、少なくとも[[2世紀]]以降の教父の文章などに散見される[[聖伝]]・教理として受け継がれ<ref>アロイジオ・デルコル(神父)『死者のための祈り -聖トン・ボスコの教え-』世のひかり社、p.18</ref><ref>[[里脇浅次郎]] 『カトリックの終末論』 pp.62-63 聖母文庫 ISBN 9784882161073</ref><ref>南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』教会憲章50、p.88、註152には、ローマのカタコンブにある墓碑には、そうした痕跡が散見される、としている</ref>、[[旧約聖書]]([[第二正典]])の『[[マカバイ記|第二マカバイ記]]』の記述も根拠になるとして、[[フィレンツェ公会議]]([[1431年]] - [[1443年]])と[[トリエント公会議]]([[1543年]] - [[1563年]])で公式な教義として再確認された<ref name="Cathechism1031">『カトリック教会のカテキズム』1031節 (日本語版310頁)</ref>。このような経緯もあり、教会の[[東西教会の分裂|東西分裂]]以前にカトリック教会と分かれた[[正教会]]では、煉獄を認めていない<ref name="OCJ">[http://www.orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html 正教会とは] ([[日本正教会]]の公式サイトのページ)</ref><ref name="nagoya">[http://www.orthodox-jp.com/nagoya/nandemo22.htm §質問§] (名古屋ハリストス正教会のページ)</ref>。また、プロテスタントでは、[[マルティン・ルター]]は当初、煉獄の存在を認めていたが、後にマカバイ記を否認したことから他の改革者たちと同じく煉獄を否定するようになった<ref>里脇浅次郎 『カトリックの終末論』 p.63</ref>。
57行目:
 
== 関連項目 ==
* [[地獄 (キリスト)]]
* [[辺獄]]
* [[黄泉]]