「部落の起源論争」の版間の差分

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lk, sty, etc
m (lk, sty, etc)
 
弥生時代以前からの先住民族の末裔が差別されるようになったとするもの。
 
 先住民で渡来の大和民族に同化しなかった一部のグループが山窩([[サンカ]])などとして朝廷の支配下に取り込まれずに身分制度の外におかれたものが被差別部落の一部に見られたことから生まれた説と考えられる。
 
江戸時代にも多く唱えられたが<ref>[[上杉聰]]「天皇制と部落差別」P178-179</ref>、被差別部落の一部に彫りの深い顔立ちで体毛が濃く筋肉質ながっしりした体型である傾向があるグループが有ることから明治期以降は主に人類学者がこの説を提唱した。
 
===宗教起源説===
仏教の殺生戒や[[神道]]でいう穢れにふれるため差別されたとするもので、特に神道起源説は有力な説の1つに挙げられている<ref>民俗学辞典(1951、P550)では差別の大きな要因として「死穢や死霊とかかわりあう宗教的職能民を特別視する感覚」を挙げている。</ref>。部落差別を[[神仏習合]]の副産物とみなす説もある。
 
===政治起源説===
なお,東京のアマチュア郷土史研究家[[菊池山哉]]は『穢多族に関する研究』(1912年・発禁本)における異種族起源説(次節以降参照)を放棄し、『日本の特殊部落』(東京史談会・1961年)において、全国約215カ所の「[[別所 (地名解釈)|別所]]」を[[大和王権]]による俘囚の移配地と見て、別所を起源の一つとする説を提唱した。菊池説が歴史学界で評価されたことはないが、「別所」の[[俘囚]][[移配]]地説について[[柴田弘武]]が『鉄と俘囚の古代史』(彩流社・1989年)などの研究を行っている。柴田はさらに約300カ所の別所を析出し、計約500カ所の別所を検討した結果、「菊池の説は動かし難いと思う」と述べている。少なくとも被差別部落の一部は別所を起源とするとの見方がある。
 
大阪大学教授の小浜基次(人類学者)が西日本の被差別部落を広島辺りまで調査したところ、西日本の一般民は朝鮮半島に多い短頭型であるのに対し、被差別部落民の頭型は東北や裏日本に多い中頭型であることが判明したという<ref>[[高本力]]『増補新版 部落の源流』p.198。</ref>。
 
また、被差別部落の側から書かれた[[高橋貞樹]]『特殊部落一千年史』(更生閣・1924)は、「古代の被征服民にして賤業を課せられた奴隷が、時代の経過とともに一定特殊の社会群に変じ、さらに賤業を営むものが穢多族であるという観念に変わったものであろう」(岩波文庫・1992として再刊)としている。
この説は、部落解放の父と呼ばれた[[松本治一郎]]から「我々の起源は神武時代である。神武が南方に於て戦に負けて逃げて[[九州]]に流れ着いた。九州の先住民よりも武器が優秀である。神武の画を御覧なさい。長い[[刀]]をさし、[[弓 (武器)|弓]]を持って居ります。……我々の先祖は征服された」<ref>[[1946年]][[10月14日]]の講演での発言。「宗像郡部落解放委員会講演速記」、『部落解放史・ふくおか』第61号、福岡部落史研究会、[[1991年]]3月、p.128</ref>と支持された。[[高橋貞樹]]などもこの立場を採る。一方神武天皇が南方で負けたとする記述は史書に見当たらず、それを証明する考古遺物も存在しない。
 
1885年、東京人類学会の会員であった[[箕作源八]]が「穢多ノ風俗」について各地の報告を求め、各地からの被差別部落民にかんする伝承や関係文献 が集まったが、その多くは、被差別部落民を日本人とは異なる「人種」として捉え、その起源について論じるものであった<ref>[[関口寛]]『20 世紀初頭におけるアカデミズムと部落問題認識』</ref>。
 
その後、人類学者・[[鳥居龍蔵]]は、1890年代に、東京・関西・四国等の被差別部落の人の外形を調査し、「朝鮮人の帰化せし者なりとの説は少しも信ずるに足らざるなり。蓋し一も其帰化らしき体質を認めざればなり。若しも彼等が朝鮮的体質なるならば彼等の目は必ず蒙古的ならざるべからず。亦頭形がブラキセフワリック即ち幅の広きものならざるべからず。然るに彼に在りては此要素を少しも認むる能はざるに於ては寧ろマレー的体質を備ふるものに類似せるなり」との調査結果を発表し、朝鮮人説を完全に否定するとともに、被差別部落民には「蒙古眼(蒙古襞)」がみられない南方系の人種であることを強調している。なお、このように、頭長で蒙古眼がみられないという特徴は、アイヌなどの古モンゴロイド(縄文人)のそれと一致する。俗に「被差別部落には美人が多い」という言い伝えがあり<ref>[[田宮武]]『被差別部落の生活と闘い(明石書店, 1986)p.243</ref><ref>[[渡辺巳三郎]]『近代文学と被差別部落』p.241</ref><ref>[[原田伴彦]]『部落解放を求めつづけて: 原田伴彦部落問題選集』p.153</ref><ref>[[柴田道子]]『被差別部落の伝承と生活: 信州の部落.古老聞き書き』p.48</ref><ref>[[塚原美村]]『未解放部落』p.236</ref>、この伝承も被差別部落の異人種起源説を前提にしている<ref>『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別: 『賀川豊彦全集』第8巻の補遣として』p.54, 176</ref>。部落出身の[[岡本弥]]は「我徒の同胞には可なりの美人が少なくない」と述べ、部落の美人が一般地区に流出し醜い女性だけが部落に残ることを憂え、美人保護論を唱えた<ref>岡本弥『特殊部落の解放』p.202</ref>。[[賀川豊彦]]は「穢多の間に美人が多いことは誰も認めて居る処である」と述べ、被差別部落民の[[コーカソイド]]起源説を唱えた<ref>賀川豊彦『貧民心理の研究』</ref><ref>『日本キリスト教史における賀川豊彦: その思想と実践』p.117</ref>。[[大江卓]]は「我国の『エタ』も其実往古より『ハフリ』の別名にして、[[交趾支那]]に来りた『ヘブリウ』人の一部分の渡来したる者なりと想像す可からざるにあらざるなり」と述べた<ref>『岩波講座日本通史』第18巻、157頁</ref>。
 
また、戦後になると、大阪大学教授で人類学者[[小浜基次(人類学者)]]が、形質人類学により、47の被差別部落を含む全国的な調査を行ったが、被差別部落民は周辺地域と比較して中頭型の性質を示したという。短頭型の朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区内においてはもとより、一般集団との差異が少ない地域においても、被差別部落民は周辺地域の人と比較して長頭の傾向があったという<ref>小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)</ref>。
 
[[沖浦和光]]は[[岩上安身]]によるインタビューの中で「すべての先住民のなかで[[蝦夷]]が、ヤマト朝廷の侵略に抵抗して、最も粘り強く果敢に戦った」「戦いに敗れた蝦夷の戦士たちは俘囚として連行され、西日本各地に配流されてその一部は賤民とされました」<ref>『天皇の伝説』p.196</ref>と述べている。沖浦によると、インド伝来のケガレ思想が、中世以降、蝦夷への差別に影響したという<ref>『天皇の伝説』p.199</ref>。