「水野忠邦」の版間の差分

=== 失脚・老中再任後 ===
[[File:Grave of Mizuno Tadakuni.JPG|thumb|水野忠邦の墓]]
改革はあまりに過激で庶民の怨みを買ったとされ、寺院にあった[[木魚]]を乱打しながら「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ」と歌われたという。失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を投石などの襲撃を受け、「ふる石や瓦とびこむ水の家」と川柳に詠まれている。
 
[[弘化]]元年([[1844年]])5月、[[江戸城]]本丸が火災により焼失した。老中首座・土井利位はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、6月21日に家慶は外国問題の紛糾などを理由に忠邦を老中首座に再任した。しかし昔日の面影は無く、重要な任務を与えられるわけでもなかったため、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったとされ、[[目付]]の[[久須美祐雋]]の記録では「木偶人御同様」(木偶の坊のようである)とされていた。同年7月からは頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤した後、12月からは[[癪]]を理由として長期欠勤し、老中を辞職する弘化2年([[1845年]])2月まで勤めを休んだ<ref>[[藤田覚]]『大江戸世相夜話』(中央公論新社、2003年) 29-30頁</ref>。その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしている。土井は自ら老中を辞任。鳥居は全ての役職を罷免された。