「下関戦争」の版間の差分

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一方、長州や薩摩の攘夷実行の現実を見た-->
幕府は、文久3年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]](1863年8月21日)、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]には旗本の[[中根丞]]らを軍艦「[[朝陽丸]]」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]には「朝陽丸」を拿捕。さらに、[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]-20日には中根らを暗殺した([[朝陽丸事件]])<ref>[[山口市]]文化政策課 「[http://www.city.yamaguchi.lg.jp/oouchi/yamaguchicity_histry/bakumatsu_human/12.html 幕末山口諸人往来 第12回 幕府の長州糾問使と朝陽丸事件 文久3年7~9月]」</ref>。
 
文久3年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]、[[三条実美]]ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の[[神武天皇]]陵参拝と攘夷親征の詔が下る([[大和行幸]])。これに呼応して[[大和国]]では[[天誅組]]が挙兵した([[天誅組の変]])。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]に薩摩藩と[[京都守護職]]の[[会津藩]]が結託して[[孝明天皇]]の了承のもと[[クーデター]]を起こし、攘夷派公卿は失脚、長州藩も朝廷から排除された([[八月十八日の政変]])。天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。