「新末後漢初」の版間の差分

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一方、[[呂母の乱]]の少し後に[[王匡 (更始)|王匡]]・[[王鳳 (更始)|王鳳]]と言ったものたちが緑林山(現在の[[湖北省]][[荊門市]][[京山市]])を根拠として農民を吸収して反乱軍を指揮した。こちらは'''[[緑林軍]]'''と呼ばれる。しかしこの軍の内部で疫病が流行したために一つの所にいることが出来なくなり、[[21年]]には分裂し、片方は南下して'''下江軍'''と呼ばれるようになり、もう片方は北上して[[南陽郡|南陽]]に入った。こちらは'''新市軍'''と呼ばれるようになる。新市軍は南陽の豪族であり、[[宗族]]でもある劉氏と手を結び、再び勢力を盛り返した。この劉氏の中に劉秀(後の[[光武帝]])と劉秀の兄の[[劉縯]]がいる。分裂した緑林軍は再び合流して、[[23年]]に劉氏の中の[[更始帝|劉玄]]を擁立し、[[元号]]を新しくして[[更始 (漢)|更始]]とし、劉玄は皇帝となった。これ以後の劉玄は[[更始帝]]と呼ばれる。
 
[[王莽]]は当然これらの反乱軍に対して討伐軍を送る。しかし[[22年]]に[[廉丹]]と[[王匡 (新)|王匡]](緑林軍の王匡とは別人)を将軍とする討伐軍は、赤眉軍に敗れた。赤眉軍が上述の眉に赤を塗ったのはこの戦いからである。更始帝軍は[[南陽郡|南陽]]の中心都市である[[宛城区|宛]]を包囲し、それに対する王莽の討伐軍は宛の近くの[[葉県|昆陽]]を包囲するが、劉秀の活躍により打ち破られた([[昆陽の戦い]])。この後の王莽は相次ぐ敗戦に錯乱してしまったようで、「昔から大きな災いの時には大きな哭き声で呪いをしたものだ。天に向かって哭いて救いを求めるのが良い。」などといった進言を大真面目に取り上げて、人数を集めて哭き声が大きかった者は官僚として取り立てると布告し、それで取り立てられた者が5000人になったと言う。この有様に全国に反王莽の群雄が起こり、王莽は[[長安]]に乱入した群盗により殺された。王氏の一族も多くは滅ぼされたが、王莽と不仲であった従兄弟の[[王閎]]や[[王丹]]は抵抗せずに更始帝に降伏して助命されている。
 
== 光武帝の争覇戦 ==