「西尾末広」の版間の差分

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|前職 = [[労働運動家]]
|現職 =
|所属政党 = ([[社会民衆党]]→)<br/>([[社会大衆党#社会大衆党 (日本 1932-1940)|社会大衆党]]→)<br/>(無所属→)<br/>([[翼賛政治会]]→)<br/>(無所属→)<br/>([[日本社会党]]→)<br/>([[右派社会党]]→)<br/>(日本社会党→)<br/>社会クラブ→<br>[[民社党]](結党時点の名称は|民主社会党]]
|称号・勲章 = [[正三位]]<br/>[[勲一等旭日大綬章]]<br />[[勲一等瑞宝章]]
|親族(政治家) =
[[1928年]](昭和3年)、[[第16回衆議院議員総選挙|第1回普通選挙]]で社会民衆党から立候補し、初当選。[[1932年]](昭和7年)以降は[[社会大衆党]]に所属し幹事に就任した。[[1938年]](昭和13年)[[3月16日]]、[[衆議院]][[本会議]]における[[国家総動員法]]案の審議に際し、同法案を支持する立場から、[[近衛文麿]][[内閣総理大臣|首相]]に対し「[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]のごとく、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]のごとく、あるいは[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]のごとく、確信に満ちた指導者たれ」と激励する。全体主義的独裁者への共鳴を示したが、社会大衆党を好ましく思っていなかった[[立憲政友会|政友会]]・[[立憲民政党|民政党]]の両党によりスターリンの名を肯定的に挙げた部分が問題とされ、衆議院で除名決議において賛成320票・反対43票で88%の賛成を得て、西尾は議員を除名された(翌年の補欠選挙で復活)。
 
[[1940年]](昭和15年)3月、[[斎藤隆夫]]が行った[[反軍演説]]の議員除名問題では、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席する。社会大衆党書記長[[麻生久]]による幹部除名策略によって党首[[安部磯雄]]や[[水谷長三郎]]らとともに党除名処分を受けた。自身の初孫(後に青学大法学部卒業し[[ニッポン放送]]入社、現・[[デジタルハリウッド大学]]客員教授)[[西尾安裕]]が出生した[[1942年]](昭和17年)の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]では非推薦で当選する。[[翼賛政治会]]や[[大日本産業報国会]]と距離を置き、密かに[[東條内閣|東條英機内閣]]の倒閣運動にも加わった。その結果、戦後の[[公職追放]]を免れた。
 
[[1945年]](昭和20年)の政党復活で日本社会党に所属し社会党右派の中で頭角を表した。これより先、保守政治家の[[鳩山一郎]]らと共同での新党設立を協議したが、互いの支持者の意向を踏まえて「政治的余韻を残したままで別れた」(西尾末広『西尾末広の政治覚書』)。[[1946年]](昭和21年)、[[片山哲]]委員長の下で書記長に就任。[[1947年]](昭和22年)、[[第23回衆議院議員総選挙]]で社会党が衆議院第一党になったと聞かされた時には思わず「本当かい、そいつぁえらいこっちゃ」と本音を漏らしている。西尾は社会党が政権を担当するのに準備不足ということを考えていたため、非社会党首相を擁立しつつ、閣僚は社会党を多数擁立する内閣を想定していた。具体的には、[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]の[[吉田茂]]内閣続投を想定していたが、吉田は[[容共]]の[[社会党左派]]を嫌い、排除を要求してきた。その結果、吉田続投路線は見送られた。
 
[[日本社会党委員長]][[片山哲]]首班政権の[[片山内閣]]が組閣された際には、[[内閣官房長官]]として入閣。翌年の[[芦田内閣]]では[[副総理]]に就任するが、[[芦田均#芦田内閣の崩壊|土建献金]]で[[証人喚問]]を受けた。その後、副総理を辞任するも[[昭和電工事件]]で10月に逮捕された。献金問題では証人喚問において「書記長である西尾末広個人がもらった」と主張、社会的な非難を受けるが自らの主張を貫き両事件とも無罪を勝ち取った。
 
[[1952年]](昭和27年)、西尾は衆議院議員に返り咲くが、社会党が左右両派に分裂し[[社会党右派|右派社会党]]に所属した。[[1955年]](昭和30年)、左右両派の革新統一日本社会党が結党されるも役職には就かなかった。
 
[[1959年]](昭和34年)の[[第4回参議院議員通常選挙|第4回参院選]]で社会党が敗北(議席そのものは増えたが、[[自由民主党 (日本)|自民党]]が大勝した)すると、左派からは[[社共共闘]]で行くべきとの主張が上がった。[[反共主義]]の立場を取る西尾はこれに反発し、党内に社会党再建同志会を結成。それが新党へ繋がって行く。西尾の理想は、政権交代可能な健全な社会主義政党を築くことであった。従って、[[安保闘争]]においても代案を用意すること、さらに[[日本共産党|共産党]]の排除を主張した。しかし、当時の社会党には西尾の主張は受け入れられず、12月に西尾は自ら社会党を離党し、社会クラブを結成。(社会党から[[除名]]処分)
 
[[1960年]](昭和35年)[[1月24日]]、民主社会党を結成(衆院40・参院17)。初代委員長に就任し片山哲が最高顧問に就任。安保国会では、社共両党と同様に反対姿勢で取り組むが安保以外の予算案や政府自民党案に同調する構えを見せる。新安保条約の自然発効後、自民党の[[福田赳夫]]から、[[岸信介]]の後継首相への誘いを受けた。西尾を立てることで、民社・社会両党を巻き込んだ[[挙国一致内閣]]を狙ったものだが、西尾が断ったため幻となった。
同年の衆院選では[[議会主義]]擁護を掲げ、社会党と対決姿勢を取った。しかし、[[10月12日]]、[[日比谷公会堂]]で[[浅沼稲次郎暗殺事件]]が起こると「しまった」と言ったという。社会党に同情が集まることを恐れたのである<ref>日比谷公会堂では民社、社会、自民の3党首演説会が行われており、西尾、浅沼、[[池田勇人]]の順で演説を行う予定となっていた。西尾が凶報を耳にしたのは、演説が終わり一足先に退席した帰路のことであった。なお、池田の演説は中止になった。</ref>。結果、[[第29回衆議院議員総選挙|衆院選]]では23議席減の17議席で完敗。厳しい船出となった。しかしその後、党勢は次第に回復増大、[[1966年]](昭和41年)の第31回衆議院総選挙では30議席を確保、野党勢力の一角を形成することに成功する。
 
[[1965年]](昭和40年)の日韓国会では、自民党と共に基本条約を強行採決するという荒業を見せた。[[1966年]](昭和41年)、社会党に「民社党は第2保守党だ」と批判されると、[[西村栄一]]書記長に「社会党は第2共産党だ」と反論させた。[[1967年]](昭和42年)、西尾は委員長を退任し常任顧問に就任し、西村書記長を後任に指名した(翌々年[[1969年]]<昭和44年>1142>11月民社党に名称変更、同年12月[[第33回衆議院議員総選挙]]で78歳と高齢ながら再選、当時[[吉田治]]は旧衆院大阪2区内の城東区在住の小学2年生)。西村、[[春日一幸]]、[[佐々木良作]]ら各委員長の下で常任顧問として健在するも、[[1972年]](昭和47年)[[第33回衆議院議員総選挙]]不出馬で政界を[[引退]]し旧衆院大阪2区では全国区選出参院議員から鞍替え目指す[[中村正雄_(政治家)|中村正雄]]が落選した。
 
1981年(昭和56年)10月3日、脳内出血と腎不全のため90歳で死去した。
== エピソード ==
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1|ソートキー=人1981年没}}
西尾は「政権を取らない政党は、[[ネズミ]]を捕らぬ[[ネコ]]と同じだ」、「愛党より愛国」という言葉を残している。
 
知る人ぞ知る逸話として、[[日本経済新聞]]紙上に[[ペンネーム]]で映画評論を執筆しては投稿する程の[[シネ・フィル]]であったという。1967年(昭和42年)の民社党委員長退任時、NETテレビ(現・[[テレビ朝日]])の[[モーニングショー]]に出演中、委員長辞任を生放送のスタジオで告白。司会の[[木島則夫]](後に木島自身も民社党から出馬している)らが呆気に取られる中、「僕の好きな『[[ローハイド]]』のテーマをリクエストします」と言い放ち、[[バックグラウンドミュージック|BGM]]の流れる中、西尾はスタジオを後にした。直前の新人対決の[[1967年東京都知事選挙|都知事選]]に[[弁護士]][[松下正寿]]を[[自由民主党_(日本)|自民]]・民社両党共同推薦で擁立尽力したが、[[社共共闘|社共推薦]]の[[美濃部亮吉]]に惜敗した事も辞任決意の要因の一つであった。
 
1994年12月9日[[日本青年館]]での民社党解党大会後に[[民社協会]]の代表となった[[中野寛成]]や事務局長となった[[梅澤昇平]]は「西尾末広の最後の直弟子」を自負している。
 
民社党職員だった[[荒木和博]]や2020年設立間もない[[国民民主党_(日本 2020)|国民民主党]]滋賀県連常任顧問となった[[川端達夫]]も「最も尊敬する政治家・西尾末広」を公言している。
 
== 著書・評伝 ==