「ヴュルテンベルク王国」の版間の差分

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[[ナポレオン戦争]]中の[[1802年]]、まだ公爵であった[[フリードリヒ1世 (ヴュルテンベルク王)|フリードリヒ1世]]がヘヒンゲンのカウラ夫人をして大貿易商会を組織させた<ref name=AL />。[[1803年]]にヴュルテンベルク公は[[選帝侯]]となった。[[1806年]]に帝国が崩壊すると公国はヴュルテンベルク王国へと昇格した。この際、教会領など多数の小領邦を併合して、[[シュヴァーベン]]地方の大部分と南[[フランケン地方]]の一部を支配下に収めた<ref>ただし、プロイセン王家=[[ホーエンツォレルン家]]の発祥の地である旧ホーエンツォレルン伯領は、プロイセン王国の飛び地ホーエンツォレルン州とされた。</ref>。
 
こうして[[ホーエンローエ家|ホーエンローエ侯国]]を吸収した王国は、1815年に[[ドイツ連邦]]へ加盟した。1817年に王立銀行の一部が再興された。このときすでにカウラ一族は[[ロスチャイルド]]と姻戚関係をもっていた。カウラ夫人の息子Veit Kaulla (1764-18111764–1811) は[[ゴールドシュミット・ファミリー]]と結婚している。カウラ一族の大貿易商会がつくったシュトゥットガルト支店は新生王立銀行の共同設立者であり、カウラ一族は1915年まで新生王立銀行の経営権を握っていた<ref name=AL /><ref name=RL>Rudolf Lenz, "Kaulla, Chaile, geborene Raphael", ''Neue Deutsche Biographie'', 11 (1977), SS. 360-362.</ref>
 
[[1848年革命]]が起きた数年間に、王国の経済がロスチャイルドをはじめとする[[フランクフルト]]資本に頼りきっている状況を打破すべく、発券銀行の設立が延々と議論された。[[ハイルブロン]]に駐在する[[ベルギー]]総領事の[[:de:Wilhelm Seybold{{仮リンク|ウィルヘルム・サイボルト]]|de|Wilhelm Seybold}}から推進積極的な干渉を受けたり、堅物の下院議員[[:de:Moritz Mohl{{仮リンク|モリッツ]]・モール|de|Moritz Mohl}}がしつこく反対したりした。そして結局、ヴュルテンベルクに発券銀行はできなかった<ref name=AL />
 
王国の経済は[[南北戦争]]で非常な活況を呈したが、[[普墺戦争]]で敗退した。このころデルテンバッハという一族は、王族とロスチャイルド家の間に家系図を占めて[[閨閥]]を成していた。デルテンバッハ一族は閨閥の力で、本社を失ったカルフの繊維産業を再構築した([[:{{仮リンク|カルフ商工会議所|de:|Industrie- und Handelskammer Calw|IHC]]}})。デルテンバッハ商会はロスチャイルドの金融仲介で発行された有価証券を優先して引受けることができた。[[1871年]]に王国は[[ドイツ帝国]]に編入され、[[1918年]]の[[ドイツ革命]]まで存続した。1922年、新生王立銀行はヴュルテンベルク手形交換所組合銀行となり、1924年に[[ドイツ銀行]]へ吸収された<ref name=AL /><ref name=RL />
 
== 政治 ==