「ニューカレドニア」の版間の差分
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先住民は[[1960年代]]以降[[政党]]を組んで権利主張と独立運動、先住民文化復興活動などを始め、ニューカレドニアは[[1986年]]以来、一度は[[1947年]]に外された[[国際連合非自治地域リスト|国連非自治地域リスト]]に再度掲載されている。このリストには近隣の島国である[[アメリカ領サモア]]、ニュージーランド領[[トケラウ]]などが含まれている。
[[1985年]]、先住民文化復興活動の先頭に立っていた{{仮リンク|ジャン=マリ・チバウ|en|Jean-Marie Tjibaou}}率いる[[社会主義カナック民族解放戦線]]([[:fr:Front de libération nationale kanak et socialiste]]、FLNKS)は独立への扇動を行った。ジャン=マリー・チバウらは独立国家「カナキー」の樹立を主張した。FLNKS指導者の暗殺に端を発してカナックによる暴動が始まり拡大し、ニューカレドニア全土に[[非常事態宣言]]が出される事態となった。特に[[1988年]][[4月22日]]、独立過激派が27人の[[フランス国家憲兵隊]]員と1人の[[裁判官]]を人質にとってロイヤルティ諸島[[ウベア島 (ニューカレドニア)|ウベア島]]の洞窟に監禁し、4人を殺害した事件が最大の危機となった。この事件は5月、海軍特殊部隊、[[フランス国家憲兵隊治安介入部隊|GIGN]]、[[国家憲兵隊空挺介入中隊|EPIGN]]などによる突入で過激派を殺害することで解決したが、特殊部隊側にも犠牲者が出た。なお、GIGNの隊長が1990年に発表した手記によれば、制圧後に無抵抗だった過激派は暴行・射殺され、その事実をフランス政府は隠蔽したとしている<ref>
動乱の中、フランス政府は[[1987年]]に約束どおり[[住民投票]]を行い、翌[[1988年]]にマティニョン合意が成立し自治拡大が約束された。合意を結んだジャン=マリー・チバウは独立過激派により[[1989年]]に暗殺されてしまいFLNKSは混乱に陥った。
以後も自治への運動や協議が行われ、[[1998年]]には'''{{仮リンク|ヌーメア協定|fr|Accord de Nouméa|en|Nouméa Accord}}'''(ヌメア協定)が結ばれ、住民への権限譲渡プロセスを「不可逆なもの」と位置づけた。フランス[[市民権]]とは別の「ニューカレドニア市民権」を導入すること、ニューカレドニアのアイデンティティを表す公的なシンボル(ニューカレドニア「国旗」など)をフランス国旗とは別に制定すること、フランス政府がニューカレドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡し、最終的には[[外交]]、[[国防]]、[[司法]]権、[[通貨]]発行以外の権限はニューカレドニアに全面的に譲渡されること、[[2014年]]から[[2018年]]にかけてのいずれかの時点で独立かフランス残留かの[[住民投票]]を行うこと、などが定められた。2018年[[11月4日]]に[[2018年ニューカレドニア独立住民投票|フランスからの独立の是非を問う住民投票]]が実施されたが、独立反対が得票率56.40%で過半数となり否決された
== 人口統計 ==
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