「始皇帝」の版間の差分

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両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった<ref name="Firsteselect" />。丹は非常の手段である[[暗殺]]計画を練り、[[荊軻]]という[[刺客]]に白羽の矢を立てた<ref name="Ren" /><ref name="Firsteselect" />。
 
秦王政20年(前227年)、荊軻は[[秦舞陽]]を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の元将軍で燕に亡命していた[[樊於期]]の首を携えて政への謁見に臨んだ<ref name="Firsteselect" /><ref name=Yoshi88 />。樊於期は嘗て政の政策に異を唱え一族を皆殺しにされ、燕に亡命した人物である。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき政になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は[[天子]]の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た<ref name="Firsteselect" />。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首<!--匙のような形状の暗器のことであり、短刀ではない-->が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり政へ襲いかかった。政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った<ref name="Firsteselect" />。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の[[夏無且]]が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に政はやっと剣を手にし荊軻を斬り伏せ<ref name="Firsteselect" /><ref name=Yoshi95>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.95-101、第三章 統一への道‐六国併合‐3]]</ref>、そのまま事切れた荊軻を滅多斬りにした
 
政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。
 
そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都[[房山区|薊]]を落とした。荊軻の一族血縁すべてしにしても怒りは静まらず、首都ついには町の住民を皆全員もしにし害された<ref name=Yoshi95 />。その後の戦いも秦軍は圧倒し、[[遼東]]に逃れた[[燕王喜]]は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた([[燕攻略|燕の滅亡]])<ref name=Chin196 /><ref name=Yoshi95 />。
 
===魏・楚・斉の滅亡===
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==大土木工事==
[[Image:Epang-Palast.jpg|170px|thumb|right|阿房宮図。清代の袁耀作。]]判明している大土木工事は以下の物だが、住民への負担は甚大で「還るは十中三(=参加者の7割は死ぬ)」と謂われた。
 
===咸陽と阿房宮===
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし{{仮リンク|十二金人|en|12 Jin Ren}}を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた<ref name=Yoshi151>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.151-157、第五章 咸陽‐阿房宮と驪山陵‐3]]</ref>。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の[[渭水]]北岸では手狭になった<ref name=Yoshi151 />。
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===咸陽での襲撃===
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われ<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou33>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」33]]</ref>、その地域の者は皆殺しにされた
 
==「真人」の希求==
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==祖龍の死==
===不吉な暗示===
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した[[隕石]]に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた<ref name="LiangY">Liang, Yuansheng. (2007). ''The Legitimation of New Orders:Case Studies in World History''. Chinese University Press. ISBN 962996239X, 9789629962395. pg 5.</ref>。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、その地域の住民全員しにされた<ref name=ShikiSikou42>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」42]]</ref>上、隕石は焼き砕かれた<ref name="RGH" />。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた<ref name=Yoshi232 />。
 
また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou42 />。
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==その後==
===隠された崩御===
始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを[[李斯]]は恐れ<ref name="Firsteselect" />、秘したまま一行は[[咸陽市|咸陽]]へ向かった<ref name="Firsteselect" /><ref>O'Hagan Muqian Luo, Paul. (2006). ''讀名人小傳學英文:famous people''. 寂天文化. publishing. ISBN 9861840451, 9789861840451. p16.</ref><ref>Xinhuanet.com. "[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/newscenter/2005-03/20/content_2719803.htm Xinhuanet.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090318222506/http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/newscenter/2005-03/20/content_2719803.htm |date=2009年3月18日 }}." ''中國考古簡訊:秦始皇去世地沙丘平臺遺跡尚存.'' Retrieved on 2009-01-28.</ref>。[[崩御]]を知る者は[[胡亥]]、[[李斯]]、[[趙高]]ら数名だけだった<ref name=ShikiSikou46 /><ref name=Yoshi238 />。死臭を誤魔化す為に大量の魚を積んだ車が伴走し<ref name=ShikiSikou46 /><ref name="Firsteselect" />、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた<ref name="Firsteselect" />帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。[[扶蘇]]に宛てた遺詔は握りつぶされ、[[蒙恬]]ともども死を賜る詔が偽造され送られた<ref name="Tung" /><ref name=Yoshi243 /><ref name=Yoshi246>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.246-253、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐4]]</ref>。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた<ref name=Yoshi246 />。また趙高は偽詔を用いて胡亥の兄姉を皆殺しにした
 
===二世皇帝===
始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)<ref name="Firsteselect" />、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ<ref name=Yoshi253>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.253-258、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐5]]</ref>。蒙恬や[[蒙毅]]をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、[[陳勝・呉広の乱]]を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った<ref name=Yoshi253 />。そして李斯さえ陥れて処刑させた<ref name=Yoshi258>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.258-264、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐6]]</ref>。
 
しかし反乱に何ら手を打つ処か反乱軍と内通しいた趙高は、二世皇帝3年(前207年)に反秦の反乱の1つの勢力である[[劉邦]]率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、使えぬ傀儡は最早不要と逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた<ref name=Yoshi264>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.264-270、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐7]]</ref>。趙高は二世皇帝の兄とも扶蘇の子とも伝わる[[子嬰]]を次代に擁立しようとしたが、彼によってされ一族は皆殺しにされた。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、[[項籍|項羽]]に族滅殺害された<ref name=Yoshi264 />。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく[[胡亥]]のことを指していた<ref name=Yoshi264 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/lunheng/shi-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 儒家 論衝 實知 2|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
 
==人物==
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。[[尉繚]]は秦王時代に軍事顧問として重用された<ref name=Yoshi81 />が、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った<ref name=Chin154 />。
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|秦王為人,蜂準,長目,鷙鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。}}|史記「秦始皇本紀」4<ref name=ShikiSikou4>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」4]]</ref>}}
秦王政の風貌を、準(鼻)は蜂(高く尖っている)、目は切れ長、膺(胸)は鷙鳥(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる<ref name=Chin154 /><ref name=Yoshi81 />。現代の精神医学で謂えば典型的なサイコパス、反社会性人格障害である
 
将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った<ref name=Yoshi101 /><ref name=Chin196 />。