「第二次世界大戦期アイルランドの局外中立」の版間の差分

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{{main|{{仮リンク|非常事態 (アイルランド)|en|The Emergency (Ireland)}}}}
 
アイルランドの中立政策はアイルランドの国民にも支持された<ref>O'Halpin, Eunan, 1999, Defending Ireland: The Irish State and its enemies since 1922, Oxford: The Oxford University Press. p. 151</ref>。[[第二次世界大戦の参戦国#主な中立国|アイルランド国民はイギリス軍に入隊する事が可能]]で、少なくとも50,000人のアイルランド人が[[イギリス陸軍]]に入隊したのをはじめ、{{仮リンク|商船隊 (イギリス)|label=商船隊|en|Merchant Navy (United Kingdom)}}や[[イギリス空軍]]で任務に就き、中には[[ブレンダン・エイモン・ファーガス・フィヌケーン|ブレンダン・フィヌケーン]]のように[[エース・パイロット]]としてイギリス空軍史上最年少で[[中佐]]への昇進を果たす者も現れた。
 
4,983人の[[アイルランド国防軍]]の隊員がイギリス軍や連合国軍と共に戦うため[[脱走兵|脱走]]したが、戦後、彼らは差別に直面し、年金受給資格を失った上、公職に就く事を禁じられた。[[2013年]]になってようやく彼らはアイルランド政府によって正式に恩赦された<ref>{{cite web|url=http://www.irishtimes.com/newspaper/breaking/2012/0612/breaking47.html |title=Pardon for WWII Allies deserters&nbsp;— The Irish Times&nbsp;— Tue, Jun 12, 2012 |publisher=The Irish Times |date=12 June 2012 |access-date=23 January 2013}}</ref>。
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アイルランド政府はヨーロッパでの戦争が[[アイルランド内戦]]の古傷を刺激する結果になる事を憂慮していた。アイルランドには親[[ファシズム|ファシスト]]と反ファシスト運動が存在し、[[アイルランド共和軍|IRA]]は独自の課題を追求し続けていた。
 
元IRAの司令官であり、[[統一アイルランド党|フィナ・ゲール]]の創立者でもある{{仮リンク|エオイン・オダフィー|en|Eoin O'Duffy}}将軍は[[1932年]]から翌年にかけてファシスト組織である{{仮リンク|ブルーシャツ|en|Blueshirts}}の指導者だった<ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3724/is_200305/ai_n9263899 IRISH SECRETS: GERMAN ESPIONAGE IN WARTIME IRELAND, 1939–1945] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090930085129/http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3724/is_200305/ai_n9263899/ |date=30 September 2009 }}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ucc.ie/icms/irishmigrationpolicy/Judaism%20The%20Jews%20of%20Ireland.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050829221740/http://www.ucc.ie/icms/irishmigrationpolicy/Judaism%20The%20Jews%20of%20Ireland.htm|url-status=dead|title=The Jews of Ireland.|archivedate=29 August 2005|accessdate=2021-02-21}}</ref>。第二次大戦期に[[アイルランドの首相]]を務めた[[エイモン・デ・ヴァレラ]]は{{仮リンク|アイルランドのユダヤ人の歴史|label=アイルランドのユダヤ人|en|History of the Jews in Ireland}}を一貫して支援してきた功績が認められ、それを記念して[[イスラエル]]に{{仮リンク|エイモン・デ・ヴァレラの森|label=彼の名前が付けられた森|en|Éamon de Valera Forest}}が存在する<ref>{{cite web|url=https://www.questia.com/magazine/1G1-64507455/the-jews-of-ireland|title=The Jews of Ireland|last=Tracy|first=Robert|year=1999|publisher=bNet.com|pages=7|access-date=30 November 2014}}</ref>。 [[1936年]]に勃発した[[スペイン内戦]]で敵対する双方の陣営で2つのアイルランド人部隊が戦っていた。オダフィーの{{仮リンク|アイルランド旅団 (スペイン内戦)|en|Irish Brigade (Spanish Civil War)}}は[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]率いる反乱軍に加勢し、[[国際旅団]]の{{仮リンク|スペイン内戦におけるアイルランド社会主義者義勇兵|label=アイルランド人部隊|en|Irish socialist volunteers in the Spanish Civil War}}は[[スペイン第二共和政|共和国側]]で戦ったが、どちらも政府の支援は受けていなかった。
 
開戦前の半年間には、新指導者となった{{仮リンク|ショーン・ラッセル|en|Seán Russell}}のもとでアイルランド共和国軍の活動が活発化し、{{仮リンク|Sプラン|label=イギリスでのテロ活動|en|S-Plan}}を繰り広げた。[[1936年]]までIRAの活動を容認していたデ・ヴァレラは、[[1939年]]に{{仮リンク|対国家攻撃法 (1939年-1998年)|label=対国家攻撃法|en|Offences against the State Acts 1939–1998}}を制定して対応した。9月に世界大戦が勃発すると、破壊活動は国家の安全を脅かす物と見なされるようになった。アイルランドの港を空軍と海軍のために確保する事を求めるイギリスが、アイルランドへの侵攻や港湾の強制的な接収の口実としてテロ攻撃を持ち出す可能性や、ヨーロッパの同盟国に支援を求めるアイルランド共和主義の伝統に沿ったIRAがドイツの情報機関と連携し、それによってアイルランドの中立政策が危うくなる可能性が指摘された。{{要出典|date=2021年2月}}
 
ラッセルは[[1940年]]5月にIRAの武器と支援を得るために[[ベルリン]]を訪れ、危惧は現実の物になった。彼はドイツ軍から訓練を受けたが、{{仮リンク|ドーブ作戦 (アイルランド)|label=ドーブ作戦|en|Operation Dove (Ireland)}}の一環としてアイルランドに戻る間に潜水艦で死亡した<ref>Seán Cronin: Frank Ryan, The Search for the Republic, Repsol, 1980. pp. 188–190</ref>。少数で準備が不十分なドイツの工作員がアイルランドに派遣されたが、到着した工作員はすぐに{{仮リンク|軍事情報局 (アイルランド)|label=軍事情報局(G2)|en|Directorate of Military Intelligence (Ireland)}}によって捕らえられた。活動的な共和主義者は{{仮リンク|カーラ・キャンプ|en|Curragh Camp}}に拘留されるか、懲役刑を言い渡された。新たに制定された反逆罪で6人の男が絞首刑となり、さらに3人が[[ハンガーストライキ]]で死亡した<ref>Collins, M.E., 1993, Ireland 1868-1966, Dublin: the Educational Company of Ireland. p. 373</ref>。 次第にドイツはIRAの能力を過大評価していた事に気づくようになった。 [[1943年]]までにIRAは壊滅していた。[[配給]]や経済的な圧力にもかかわらず、アイルランドの中立政策は支持を受け続けた<ref>The Earl of Longford and Thomas P. O'Neill: Éamon de Valera. Gill and MacMillan, Dublin, 1970. pp. 347–355</ref>。
 
== 脚注 ==
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[[Category:ドイツ・アイルランド関係]]
[[Category:第二次世界大戦の政治|あいるらんと]]
[[Category:第二次世界大戦下の各国|あいるらんと]]