「儒教」の版間の差分
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==== 再評価と「儒教社会主義」 ====
だが、[[21世紀]]に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。
孔子を、その思想
ほかにも[[改革開放]]が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である[[国学 (中国)|国学]]が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている<ref>[[園田茂人]] 『不平等国家 中国--自己否定した社会主義のゆくえ』 [[中央公論新社]]、2008年5月25日、177-178頁。ISBN 9784121019509</ref>。
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== 日本における儒教 ==
{{See|日本の儒教}}
日本では儒教は[[学問]](儒学)として受容され、国家統治の[[経世済民]]思想や[[帝王学]]的な受容をされたため、[[神道]]や[[仏教]]に比べても、宗教として意識されることは少ない
'''儒学の伝来'''
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===東アジアの近代化と儒教===
宗教社会学者の[[マックス・ヴェーバー]]は『[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神]]』で西欧の近代化の原因はプロテスタンティズムにあるとしたが、その他の地域でも同様の研究を行っている。アジアについては、『儒教と道教』で「儒教は合理主義的だったが、プロテスタンティズムのような厳格さを持たなかったため、東アジアは近代化しなかった」という趣旨のことを述べている。また、[[マルクス主義]]では、「アジア的生産様式」によって中国では「アジア的停滞」が引き起こされ、近代化は起こらなかったなかったという。[[カール・ウィットフォーゲル]]は、それが「アジア的専制」を産み出したという。一方で、1990年代以降、中国の[[改革解放]]の成功や[[アジア四小竜]]の台頭を迎えると、[[リー・クアンユー]]や[[李登輝]]などは儒教が近代化の原因だと述べた。<ref>{{Cite web|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_SK000600002615|title=東アジアにおける近代化と儒教倫理|accessdate=2020年12月30日|publisher=佛教大学論文目録リポジトリ|author=大橋松行}}</ref>
===儒教は宗教か===
儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、[[仏教]]との思想的関係、[[理]]や[[気]]の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的<ref>[[湯浅赳男]]『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』[[日本文芸社]]、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN 4-537-11501-7、p72</ref>だが、[[孟子]]以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが[[唯物論]]と反する考えになっているという指摘もある。[[加地伸行]]などは、宗教を「[[死生観]]に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている<ref>加地伸行 『沈黙の宗教-儒教』 [[筑摩書房]]〈ちくまライブラリー〉/ 改訂版・[[ちくま学芸文庫]]、2011年</ref>。<!---このため、“儒教を思想と看做すか(狭義の)宗教と看做すか”では完全に見解が分かれており、たびたび論争の焦点になっている。儒教を[[宗教]]と定義した場合は教義に平等思想が無い事と死後の世界の観念が無い事による死後の再評価ができない事も問題視されている{{誰2|date=2009年10月}}---> しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事が可能なのである
== 文献 ==
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