「マグナート陰謀」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎展開: 年の誤りを訂正
27行目:
 
[[ファイル:Petru Zrinskom i Krsti Frankopanu odrubljene su glave u Beckom Novom Mjestu 30.4.1671. god.jpg|thumb|right|300px|[[ヴィーナー・ノイシュタット]]で斬首されるズリンスキとフランコパン]]
[[ブダ]]のトルコ人総督([[パシャ]])からの支援を取り付けるのに失敗した後、ズリンスキと何人かの陰謀者たちは実行を諦めて隠遁生活に入った。一方、レオポルトはハンガリー人の支援を取り付けるため、依然として彼らに(名ばかりの)自治を許していた。16701671年、未だ活動を続けていた陰謀者たちの残党が皇帝に対する反乱を扇動し、オスマン帝国による侵攻を鼓舞する内容のパンフレットを配り始めると、事態は動き出した。彼らはまた[[王領ハンガリー]]に住む少数派の[[プロテスタント]]住民にも蜂起を呼び掛けた。陰謀者たちの掲げる理念にハンガリー人の一部が呼応し始めると、当局は迅速な対応を見せた。1670年3月、ペータル・ズリンスキとその義弟[[フラン・クルスト・フランコパン]]、ナーダシュディ・フェレンツ([[:hu:Nádasdy Ferenc (főúr)]])ら首謀者たちは逮捕、処刑された。およそ2000人の貴族たちが捜査対象として逮捕された(下級貴族の大部分はこの出来事と関係はなかったが、レオポルト1世は将来同様の反乱が起きないように取り締まっておこうとした)。
 
当局による迫害はハンガリーとクロアチアの一般庶民に対しても行われ、ハプスブルク政府の兵士たちが両国に移ってきて居座った。プロテスタントの教会は、蜂起には武力で対処することを示すため、焼き尽くされた。レオポルトは陰謀を企てたことに対する報復として、ハンガリーの国法を停止した。この措置はその後10年間続き、王領ハンガリーが名目上とはいえ享受してきた自治はこれを機に終わりを迎えることになった。クロアチアでは、陰謀が計画されていた期間中にペータル・ズリンスキがクロアチア[[バン (称号)|副王]]の地位にあったため、その後60年間クロアチア人は副王になれなかった。