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== 経歴 ==
=== 少女期 - 20歳 ===
1901年(明治34年)、[[静岡県]][[引佐郡]][[都田村]]滝沢に誕生した<ref name="小百合葉子とたんぽぽ_p102">{{Harvnb|本田|1986||pp=102-105}}</ref>。8歳のときに父と死別した。母は実家の川名村へ帰り、葉子は跡取りとして家に残った。大伯父や使用人らに囲まれて不自由ない生活であったが、母恋しさに家を出て、川名の母のもとへ身を寄せた。滝沢と川名は1里程度の距離であったため、葉子は双方の村を行き来して育った{{r|この世に生きた証を_p14}}<ref name="たんぽぽの花は野に山に_p6">{{Harvnb|浜田|1985|pp=6-15}}</ref>。
 
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[[1929年]]([[昭和]]4年){{r|小百合葉子とたんぽぽ_p275}}、劇作家の[[仲木貞一]]が、子供を喜ばせる演劇をしたいとの葉子の希望を知り、仲木の師である[[坪内逍遥]]に葉子を紹介した。葉子は坪内のもとを訪ねると、坪内の説く児童演劇の大切さ、児童演劇による子供たちの育成に非常に感銘を受け、その日のうちに坪内の主宰による早稲田児童演劇研究会に入会した<ref name="たんぽぽの花は野に山に_p52">{{Harvnb|浜田|1985|pp=52-57}}</ref>。葉子は坪内を生涯の師と仰ぎ、坪内の没後も、命日の墓参を晩年までほとんど欠かすことは無かった{{Sfn|本田|1986|pp=146-148}}{{Sfn|小百合|1970|pp=39-42}}。
 
翌[[1930年]]([[昭和]]5年)より、葉子は新劇の舞台を踏み始めた。学生の趣味の範囲の演劇ではなく、本職の者たちによる舞台である。折しも東京ではいくつもの劇団ができ、詩人、劇作家、文学者、画家、音楽家などが多く関わる時代であった<ref name="たんぽぽの花は野に山に_p47">{{Harvnb|浜田|1985|pp=47-51}}</ref>。その一方で、葉子は坪内との出逢いにより、次第に児童演劇へと傾倒していた。しかし演劇は自分1人ではなく、多くの人々の協力を必要とするため、すぐに実行に移すことはできずにいた{{r|たんぽぽの花は野に山に_p52}}。
 
[[1932年]](昭和7年)、[[朝日新聞社]]の主宰により、故郷の浜松での公演で、葉子が主演を務めることになった。しかも場所は、かつて葉子が川上音二郎らの劇によりその魅力を知った、あの浜松の歌舞伎座であり、まさに晴れ舞台といえた。しかし葉子の母は依然として役者という職業を理解せず、実娘が浜松で劇をすることを拒み、各団体を困らせていた。そこへ葉子の恩師である母校の岡本校長が乗り出し、母に葉子の現在の職業が決して卑しいものではないことを語って説得し、ようやく母の許可を得ることができた{{r|たんぽぽの花は野に山に_p47}}。
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葉子は、自分たちの参加している新劇では収入が得られないため、カフェーの女給を続けつつ、様々な演劇の舞台に立った。[[映画]]や[[ラジオドラマ]]にも出演した。小柄であったために老女の役も務めた{{r|たんぽぽの花は野に山に_p52}}。老女の役を演じれば右に出る者はいないとの声もあった{{r|婦人倶楽部195008_p201}}。『[[西遊記]]』の[[三蔵法師#西遊記の三蔵法師|三蔵法師]]の役を務めたこともあった。中でも葉子が最も好んだものは、子供向けのラジオドラマであった{{r|たんぽぽの花は野に山に_p52}}。
 
この昭和初期から昭和10年代にかけ、葉子は蝙蝠座、さそり座、演技座、創作座などのいくつもの劇団に参加し、活動範囲を広げていった{{r|小百合葉子とたんぽぽ_p275}}。30歳を迎えて働き盛りとなった葉子は、映画やラジオの世界でも人気女優となり、新劇の舞台公演にもなくてはならない人材となっていた{{r|たんぽぽの花は野に山に_p52}}。[[1939年]](昭和14年)から[[1940年]](昭和15年)にかけての頃は、主に[[築地小劇場]]で多くの舞台に出演し、好評を博していた{{r|小百合葉子とたんぽぽ_p275}}。葉子の友人でもある著述家の中村チエ子([[中村メイコ]]の母)によれば<ref name="小百合葉子とたんぽぽ_p50">{{Harvnb|本田|1986|pp=50-54}}</ref>、ドレスや帽子で着飾った葉子が銀座を歩けば、すれ違う人々が「素敵ね、小百合葉子よ」と振り返るほどの人気であったという{{Sfn|本田|1986|pp=163-166}}。私生活では[[主婦の友社]]の広告部員の男性と半同棲し、後に結婚した{{Sfn|本田|1986|p=159}}。
 
[[1941年]](昭和16年)に[[結核]]を患い、[[熱海市|熱海]]で療養の身となった<ref name="小百合葉子とたんぽぽ_p166">{{Harvnb|本田|1986|pp=166-168}}</ref><ref name="たんぽぽの花は野に山に_p60">{{Harvnb|浜田|1985|pp=60-67}}</ref>。そして同年に[[太平洋戦争]]が開戦した。多くの若者が出征し、劇団も解散させられ、演劇など不可能な世になりつつあった。葉子も戦争を逃れ、夫の郷里を頼って、[[長野県]][[松本市]]笹部へ疎開を強いられた{{r|たんぽぽの花は野に山に_p60}}<ref name="松本市史199709_p934">{{Harvnb|松本市|1997|p=934}}</ref>。
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そんな葉子のもとへは、道場が焼けた後の公演先で多くの子供たちから、見舞いの言葉や金が贈られた{{Sfn|浜田|1985|pp=132-137}}。中でも、公演予定の無い遠地からの1通の手紙は一際、葉子の目に留まった。幼い子供からのもので、1枚の50円玉が丁寧に台紙に貼りつけられており、「やっと貯めることができたこの大金を、家を建てたり沖縄に行くのに使ってください」とあった。道場の焼失や多くの見舞いにも泣かずに通した葉子は、この手紙に初めて涙を流した{{Sfn|小百合|1970|pp=170-171}}。この子供に留まらず、公演先では同じようなことが続き、「私のお小遣い」といって恥ずかしそうに金を渡す少女、大量の5円玉を紐に通した首輪を葉子の首にかける学校もあり、葉子をさらに涙させた{{Sfn|本田|1986|pp=35-38}}。
 
同1963年、葉子ら数人が沖縄にわたっての事前交渉を経て、劇団たんぽぽ沖縄後援会が発足して、沖縄公演が実現した{{r|小百合葉子とたんぽぽ_p275}}。同1963年11月11日には当時の[[日本放送協会|NHK]]の人気番組『[[私の秘密]]』に、「沖縄の子供たちへ演劇を運んで行く者」として、葉子が出演した。このときには放送作家の[[西沢実]]が沖縄公演を励ますために作った詩『沖縄にとぶたんぽぽ』を、[[中村メイコ]]が朗読した{{r|小百合葉子とたんぽぽ_p50}}。
 
同1963年11月12日、初の沖縄公演が開始された{{r|小百合葉子とたんぽぽ_p275}}。本土から離れた沖縄では、葉子らは大歓迎され、新聞、テレビ、ラジオでも大きく報道された<ref name="引佐町物語_p257">{{Harvnb|松尾|1981|pp=257-261}}</ref>。同1963年11月21日に[[那覇市]]の城北小学校での開催では、開演前まで騒がしかった数百人の小学校たちが、開演後は次第に舞台に吸いつけられ、文字通り劇に溶け込むほどの反応を示した。終演後は喝采が送られ、「面白かった」「楽しかった」など、初めて見る教育劇に話を弾ませていた<ref name="琉球新報百年史_p313">{{Harvnb|琉球新報社|1993|p=313}}</ref>。