「セントルイス万国博覧会」の版間の差分

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== 日本の参加 ==
米国からの参加要請により、1902年に公式参加を決定、総裁に[[平田東助]]、のち[[清浦奎吾]]、副総裁に[[松平正直]]、事務局長に[[手島精一]]、評議員に[[福羽逸人]]、[[久留正道]]らが就任した<ref name=kusumoto/><ref name=hata>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/65/532/65_KJ00004223706/_pdf セントルイス万国博覧会における「日本」の建築物]畑智子、日本建築学会計画系論文集第532号,231−238,2000年6月</ref>。展示面積は国力に比例していたため、日本は割り当てられていた敷地の拡大を交渉し、前回のパリ万博の3倍の27万平方フィートを獲得、日本館専用の会場のほか、教育、美術、工業、工藝、通運、採掘及金、農業、林業漁業及狩猟、電氣の9館で展示を行なった<ref name=kusumoto/>。専用会場には、本館と日本庭園のほか、事務所館、眺望亭、台湾館、売店、喫茶店などが造られた<ref name=hata/>。
 
日本館は博覧会終了後、タカジアスターゼやアドレナリンの発明者でアメリカで成功していた[[高峰譲吉]]に譲渡され、[[サリバン郡 (ニューヨーク州)]]メリーウォルドにある高峰の所有地内に移築され、夏の別荘「松楓殿」として使用された<ref name=aoyagi>[https://books.google.co.jp/books?id=fY2H_PRnMvAC&printsec=frontcover#v=onepage Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) ]William Shurtleff, Akiko Aoyagi, Soyinfo Center, 2012, page:Jokichi Takamine10</ref>。高峰が没した翌年妻が売却し、以降売買が繰り返され、[[タキヒョー]]の所有となった<ref>[http://www.npo-takamine.org/contribution/03.html 「松楓殿」今昔]NPO法人高峰譲吉博士研究会、</ref>。
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