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'''プリンス・ヨルミー・ジョンソン'''(Prence Yormie Johnson、YormieはYEBUOとも言う。[[19591952]][[7月6日]] - )は、[[西アフリカ]]の[[リベリア]]の反政府組織[[リベリア国民愛国戦線]] (NPFL) の元軍事司令官で、INPELの元指導者。
 
ジョンソンは[[19591952年]]リベリアのニンバ州でギオ族の両親との間で生まれた。[[1971年]]に陸軍に入隊し、1974年には中尉に昇格。[[アメリカ]]での訓練を経て、リベリア憲兵隊長まで昇格するが自動車事故の負傷により[[1977年]]に除隊した。陸軍在住時は[[サミュエル・ドゥ]]軍曹の上官だった。[[1980年]]にドゥ軍曹が軍事クーデター起こし政権を握る。[[1985年]]に起きたクーデター失敗では[[コートジボワール]]へ亡命している。[[1987年]]に[[チャールズ・テーラー]]によるドゥ政権打倒を狙ったリベリア国民愛国戦線 (NPFL) に参加し、[[リビア]]で[[ゲリラ]]訓練を受けた。[[1989年]]にNPFLの軍事司令官としてテーラーと共にリベリアに侵入してリベリア内戦を起こした。しかし、テーラーと政治的な理念などの違いなどで対立し、テーラーから処刑容疑をかけられ同胞のギオ族の兵士らと共に[[1990年]]2月にNPFL離脱し、INPELを結成した。ジョンソンは親アメリカ及び親[[西アフリカ諸国経済共同体|ECOMOG]]だった。そのため、リビア政府と親密な関係を築くテーラーに不満があり、アメリカによるリベリア内戦の介入を強く求めていた。[[1991年]]には独立民主党 (IDP) を結成したが、INPEL内部での残虐行為が明らかになり、他の勢力から殺人罪の罪などで圧力を受け次第に弱まり、[[1992年]]にINPELを解散し、ジョンソンは[[ナイジェリア]]へ亡命した(ジョンソンによるとナイジェリア軍に強制連行されたらしい)。その後、リベリア国内の不安定な情勢から完全に孤立をし、[[1997年]]にナイジェリアの[[ラゴス]]で[[キリスト教]]の[[聖職者]]になる事を明らかにした。
 
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[[en:Prince_Johnson]]