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[[李承 (北魏)|李承]]の子として生まれた。[[孝文帝]]の初年、[[司州]]の秀才に挙げられ、中書博士に任じられた。諫議大夫に転じた。後に考課により、元士に降格された。まもなく行主客曹事をつとめ、郊廟下大夫に転じた。このころ朝儀典章の制度は未整備であったため、李彦はその制定の議論に参与した。
[[493年]]([[太和 (北魏)|太和]]17年)、孝文帝が南征の軍を起こすにあたって、李彦は親征に反対して諫めた。反対論は聞き入れられなかったが、その至誠を賞賛された。[[494年]](太和18年)、北魏の六軍が[[淮南郡|淮南]]に進軍すると、李彦は広陵王[[元羽]]の長史として召され、恢武将軍・西翼副将軍の号を加えられた。[[洛陽]]に帰還すると、李彦は趙郡王[[元幹]]の下で[[冀州]]長史となった。後に広陵王元羽の下で[[青州 (山東省)|青州]]長史に転じ、[[斉郡]][[太守]]を兼ねた。洛陽に召還されて龍驤将軍・司徒右長史となり、司徒左長史・[[秦州]]大中正に転じた。さらに行[[揚州 (古代)|揚州]]事として出向した。まもなく河南尹として召還されることとなった。帰京の途中の汝陰で、行[[徐州]]事をつとめるよう命を受けた。後に平北将軍・[[平州 (河北省)|平州]][[刺史]]に転じた。さらに召還されて、平東将軍・徐州刺史に任じられた。[[513年]]([[延昌 (北魏)|延昌]]2年)夏、大雨のために徐州の河川はみな溢れた。李彦は水陸の地勢を観て、水流を流れやすく誘導したため、冠水の被害を出さなかった。入朝して河南尹となった。後に金紫光禄大夫・光禄勲に転じ、度支尚書に任じられた。また撫軍将軍・秦州刺史として出向した。
[[524年]]([[正光]]5年)3月、[[破六韓抜陵]]らが
== 子女 ==
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== 伝記資料 ==
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