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奈良時代の官人
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壁掛成蛸は三考する葦である (会話 | 投稿記録) |
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2021年2月27日 (土) 17:47時点における版
出自
田辺史氏について、『日本書紀』巻第十四には、雄略天皇9年7月の話として、誉田山古墳(応神天皇陵)にまつわる田辺伯孫の物語があげられており、同様の物語が『新撰姓氏録』「左京皇別」にも現れている。『弘仁私記序』にも、田辺史氏が皇別の上毛野公と同祖とすることが述べられているが、この観念が生まれたのは、後述の天平勝宝2年3月以降の記述によるのではないか、とされている[1]。
経歴
聖武朝後期の天平17年(745年)路野上・太徳足・鴨石角・楢原東人らとともに、正六位上より外従五位下に叙せられる。同年9月4日、秦前大魚の後任の参河守に任じられている。
以降の記録は存在していないが、田辺史氏は、天平勝宝2年(750年)3月、田辺難波らが上毛野君の氏姓を与えられており、この時まで健在ならば上毛野氏を名乗っていたことになる。
官歴
『続日本紀』による。
脚注
- ^ 岩波書店『続日本紀』1補注1 - 一三五