「アンリ2世 (フランス王)」の版間の差分
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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2013年4月|ソートキー=人1559年没
}}
{{基礎情報 君主
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フランソワ1世の次男として生まれた。兄に[[フランソワ3世 (ブルターニュ公)|フランソワ]](ブルターニュ公)、姉にルイーズ、シャルロット、弟妹に[[マデリン・オブ・ヴァロワ|マドレーヌ]]([[スコットランド王]][[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]妃)、[[シャルル・ダングレーム (オルレアン公)|シャルル]]([[オルレアン公]])、[[マルグリット・ド・フランス (1523-1574)|マルグリット]]([[サヴォイア公]][[エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)|エマヌエーレ・フィリベルト]]妃)がいた。兄フランソワが[[1536年]]に[[ジュ・ド・ポーム]](球戯の一種)の後に急死すると、次男のアンリが[[ドーファン]](王太子)の称号を得た。
[[1547年]]に王位に就くと父の対外積極政策を継承して、[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]]兼[[スペイン]]王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と争い、[[1552年]]に[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]と[[シャンボール条約]]を結んで[[メス (フランス)|メス]]、[[トゥール (ムルト=エ=モゼル県)|トゥール]]、[[ヴェルダン]]を占領した<ref>佐藤、p. 271</ref>。カール5世の息子のスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]とも争ったが、既にイタリアにおける[[ハプスブルク家]]の優位は動かなかった。[[1559年]]の[[カトー・カンブレジ条約]]でフランスはイタリアへの権利を放棄し、[[イタリア戦争]]は終結した<ref>佐藤、p. 282</ref>。
カトー・カンブレジ条約に関連し、アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、アンリ2世の娘[[エリザベート・ド・ヴァロワ|エリザベート]]とスペイン王フェリペ2世が、それぞれ結婚することが定められた<ref>佐藤、pp. 284 - 285</ref>。1559年6月30日、その祝宴の一環で行われた[[ガブリエル・ド・ロルジュ|モンゴムリ伯]]との[[馬上槍試合]]において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれた<ref>佐藤、p. 287</ref>。この治療に当たって、国王附きの筆頭侍医[[ジャン・シャプラン]]は名医[[アンブロワーズ・パレ]]を呼んだ。パレは治療法の検討のために[[死刑囚]]4人を殺させ、自ら槍で目を突き、アンリ2世と同じ状況を作り、どうなるのか試したとも言われる<ref>ネーミ 他、p. 124</ref>。実証と実験を重視したパレらしい逸話だが、後世の創作とみられている<ref>森岡
しかし、こうした周囲の努力も空しく、アンリ2世はこの傷が原因で7月10日に没した。この件は、[[ルーカ・ガウリコ]]や[[ノストラダムス]]といった同時代の[[占星術師]]たちの[[予言]]の的中例という形で言及されることがしばしばある。ただし、実際にそのように見なせるかは議論の余地がある([[ミシェル・ノストラダムス師の予言集#百詩篇第1巻35番]]を参照)。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 佐藤賢一 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』 講談社現代新書、2014年
* オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト 『カトリーヌ・ド・メディシス』 中央公論社、1988年
* 森岡恭彦 『近代外科の父・パレ』 日本放送出版協会、1990年
== 関連項目 ==
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