「本妙寺 (豊島区)」の版間の差分

m
(→‎寺院: 陣門流の本山・別院の変更による。)
'''放火説'''は複数の説があり、[[丸橋忠弥]]、由井正雪一の残党のような反逆分子よる不逞牢人の放火という説と、江戸の都市改造を実行するために都市計画担当者の誰か火元を本妙寺に引き寄せたという説がある。<ref name=":0" />
 
'''火元引き受け説'''は、火元は本妙寺の近くにあった[[老中]]・[[阿部忠秋|阿倍忠秋]]の屋敷だったという説。火元が老中の屋敷だと幕府の威信が失墜するため、老中に頼まれ本妙寺が火元を引き受けたというものである。本妙寺には事実として大火の翌年から檀家ではない老中・阿倍忠秋より数俵の米(15俵)が大火の回向料として本妙寺に届けられている。この供養料の行為は幕末まで続き、明治維新後は金額(金十五両)によって続けられ関東大震災に至って終了してる。<ref name=":0" />
 
これだけの大火の火元であるならば当然厳罰に処されるものと思われるが、本妙寺に対して一切お咎がなかったとされている。大火後多くの寺社が移転させられているにも関わらず、本妙寺は移転されることもなく数年後には元の場所で復興し、さらには「[[触頭]]」へと異例の昇格をしている。なぜお咎がなかったということに関しては本妙寺火元引き受け説がでるものの、あくまでも推測の域を出ない。