「ホセ・リサール」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎参考文献: リンク調整
タグ: 2017年版ソースエディター
52行目:
=== 二度目の海外留学 ===
==== 日本滞在 ====
[[ファイル:日比谷公園ホセ・リサール像.jpg|サムネイル|日比谷公園にあるホセ・リサール像。「フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す」(碑文より)。碑は生誕百年の1961年6月19日に、胸像は日本滞在百周年の1998年に建てられた。]]
二度目の目的地もヨーロッパだったが、前回とは異なり、[[日本]]と[[アメリカ合衆国]]を経由して向かった。[[1888年]][[2月28日]]にリサールは[[横浜]]に到着し、[[駐日スペイン大使館|駐日スペイン公使館]]邸や[[日比谷]]の[[東京ホテル]]に宿泊し、2か月間滞在した<ref>[http://www.fukushishimbun.co.jp/topics/2974 日比谷公園  ホセ・リサール]福祉新聞、2014年02月17日</ref>。本来は経由地として、船の乗り継ぎのために2日間滞在する予定だったが、スペイン公使館に滞在中、近所で見かけた元旗本で貿易商の娘「おせいさん」こと[[臼井勢似子]](1866-1947<ref>[[松本三之介]]『日本の百年(3) 強国をめざして 1889-1900』(筑摩書房, 1967), p207</ref>)に声をかけたことにより親しくなった。英語とフランス語がある程度できた勢似子とリサールは、二人で[[歌舞伎]]を見物に行ったり[[日光]]や[[箱根]]に逗留し、リサールは日本の文化と言葉を学びつつ、滞在は延びて二か月近くに及んだ。リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったため、その存在は知られることは無かったが、没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見された。また、日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」<ref>日本は私を魅了してしまった。美しい風景と花と樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさん さようなら さようなら 思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活を送る道が示されているのに。私の青春の思い出の最後の一章をあなたにささげます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。さようなら さようなら。</ref>と記されていた。
勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る文物もほとんどない。後述されるリサールの死は日本でも多く報道された。その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性[[アルフレッド・チャールトン]]([[学習院大学]]講師)と結婚、1947年(昭和22年)に80歳で亡くなった。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子の墓があるが、毎年リサールの誕生日に[[駐日フィリピン大使館|フィリピン大使館]]により花が供えられている。