「ハンプトン・コート宮殿」の版間の差分

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[[Image:Hampton Court RJL.JPG|thumb|right|300px|ハンプトン・コート宮殿に翻る[[ユニオン・ジャック]]]]
'''ハンプトン・コート宮殿'''('''Hampton Court Palace''')は[[イギリス|英国]][[ロンドン]]南西部、[[リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区]]にある旧王宮<ref>王立郵便は宮殿を[[東モルセー]]管内に含めており、変則的に[[サリー (イングランド)|サリー]]の郵便アドレスを振り当てている。</ref>。
宮殿は[[チャリング・クロス]]の南西11.7マイル(18.9km)、ロンドン中央部から見て[[テムズ川]]の上流に位置する。
宮殿は主要な観光名所として、一般公開されている。宮殿の庭園は、毎年開催される「ハンプトン・コート宮殿フラワー・ショー」の会場となる。
宮殿は[[1525年]]のあたりには、ウルジーの支配者ヘンリー8世が使用していたが、枢機卿は[[1529年]]までそこに住み続けていた。ヘンリー王は宮殿に、大ホールとロイヤル・テニス・コートを付け加えた。大ホールは、イギリスの君主によって作られたものとしては中世最後のものである。テニス・コートは現在でも[[ジュ・ド・ポーム|コート・テニス]]の試合に使用されるが、これは現代の[[テニス]]とは異なるものである。
 
[[1604年]]に宮殿は、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]と[[ピューリタン|清教徒]]代表者との会議の会場となった。この{{仮リンク|ハンプトン・コート会議|en|Hampton Court Conference}}清教徒ピューリタンとの同意にはいたらず、ジェームズ1世による[[欽定訳聖書]]翻訳命令へとつながった。
 
[[Image:Pynequeenmarysstatebedchamberhamptoncourt edited.jpg|thumb|left|クリストファー・レンのデザインによるメアリー女王の寝室]]
[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]と[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]の共同統治の時代、ヘンリー王が建てた部分は破壊され、新しい翼が建て増しされた。その一部は、[[クリストファー・レン|サー]][[クリストファー・レン]]の監督下で行われ、居室は定期的に使用されるようになった。テューダー様式の部分の半分は、[[1689年]]から[[1694年]]までの間に建て替えられた。
庭園はオランダから招聘された造園家ダニエル・マロによって[[トピアリー]]や装飾花壇を特徴とするオランダ様式に改装された<ref>安藤聡 『英国庭園を読む:庭をめぐる文学と文化史』 彩流社 2011年 ISBN 9784779116827 pp.83-84.</ref>。ハンプトン・コートの庭園はその後幾度かの改装が行われたが、最もオランダ様式の特徴を備えたプリヴィ・ガーデンは[[1995年]]の大規模改修の際にマロが造園した時の状態に復元されている。
女王の死後ウィリアム王は改築への興味を失った。[[1702年]]、彼はハンプトン・コートで落馬し、のちにその怪我により[[ケンジントン宮殿]]で死去した。のちの統治では儀典室は放置されたが、[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と王妃[[キャロライン・オブ・アーンズバック|キャロライン]]の時代にはさらなる改築が行われ、[[ウィリアム・ケント]]などの建築家が招かれて新しく家具をデザインした。