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'''田辺 広浜'''(たなべ の ひろはま)は[[奈良時代]]の[[貴族]]。[[氏姓制度|氏姓]]は
== 経歴 ==
[[東大寺大仏]]建立に際し、銭一千貫を寄進したとあり<ref>『東大寺要録』巻2所引材木知識記」</ref>、その功あってか、[[孝謙天皇|孝謙朝]]
[[天平宝字]]元年([[749年]])5月20日、[[従五位|従五位下]]に昇叙。この間の、[[天平勝宝]]2年([[750年]])3月10日、一族の[[田辺難波]]とともに[[上毛野氏|上毛野君]]の氏姓を授与されている。
[[淳仁天皇|淳仁朝]]の天平宝字2年([[758年]])11月、[[大嘗祭]]のおりに、[[神祇官]]と[[悠紀・主基|由機・須岐]]両国の[[国司]]・[[郡司]]らとともに[[位階]]を加え、禄を与えることがあったが、その際に[[播磨国#国司|播磨介]]として、[[従五位|従五位上]]を授けられている。また、同5年([[761年]])10月には、[[広田小床]]ら、六位以上の官人5人とともに、遣唐使船4隻を[[安芸国]]で建造している<ref>『続日本紀』天平宝字5年10月10日条</ref>。その時の功もあってか、翌6年([[762年]])、[[佐味宮守]]の後任の[[京職|左京亮]]に任命されている。なお、この時の遣唐使船は安芸から難波江口への回航中に1隻が破損し、2隻編成として改めて[[中臣鷹主]]を正使として再編されたが<ref>『続日本紀』天平宝字6年4月17日条</ref>、風雨に恵まれず、海を渡ることができなかった<ref>『続日本紀』天平宝字6年7月是月条</ref>。
同8年([[764年]])正月21日、[[阿倍小路]]の後任の[[近江国#国司|近江介]]に任じられている。[[藤原仲麻呂の乱]]における去就は不明。
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