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==== 親政 ====
翌[[1583年]]6月、別の側近の[[アラン伯爵 (スコットランド貴族)|アラン伯爵]]{{仮リンク|ジェイムズ・ステュワート (アラン伯)|en|James Stewart, Earl of Arran|label=ジェイムズ・ステュワート}}の支援でリヴァン城からの脱走に成功したジェームズ6世は、[[1584年]]にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした(アラン伯も政争に敗れ{{仮リンク|ジョン・メイトランド (初代サールズテーンのメイトランド卿)|en|John Maitland, 1st Lord Maitland of Thirlestane|label=ジョン・メイトランド}}がジェームズ6世の側近に収まる){{sfn|森護|1988|p=298-299}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=245}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=44}}
 
親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は[[長老派教会|長老派]]の影響が強く、[[アンドリュー・メルヴィル]]らは「聖職者の任命は国王ではなく[[長老制|長老会議]]によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制([[監督制]])を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、[[1592年]]には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、[[1598年]]には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の[[司教]]に{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|label=スコットランド議会|en|Parliament of Scotland}}議員同様の立法活動を許すこととした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=298-299}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=44}}。
 
[[1586年]]、ジェームズ6世はイングランドと{{仮リンク|ベリック条約 (1586年)|label=ベリック条約|en|Treaty_of_Berwick_(1586)}}を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、[[1588年]]にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していたスペインにも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的に[[アルマダの海戦]]でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]にも接触している{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=300}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=444-445,491,549}}。