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[[1586年]]、ジェームズ6世はイングランドと{{仮リンク|ベリック条約 (1586年)|label=ベリック条約|en|Treaty_of_Berwick_(1586)}}を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、[[1588年]]にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していたスペインにも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的に[[アルマダの海戦]]でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]にも接触している{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=300}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=444-445,491,549}}。
 
[[1589年]]、[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[フレゼリク2世 (デンマーク王)|フレゼリク2世]](フレデリク2世)の娘[[アン・オブ・デンマーク|アンナ]](アン)と結婚した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。フレデリク2世は[[ティコ・ブラーエ]]を支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Tycho_Brahe|title=Tycho Brahe|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。翌[[1590年]]、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った[[黒魔術]]師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される[[魔女狩り]]騒動が起きている{{enlink|North Berwick witch trials|s=off}}。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学([[デモノロジー]])』の冒頭にこの事件を記述している{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=248-250}}。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズが初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという<ref>{{Cite book|title=魔女幻想|date=1999.9.15|year=|publisher=中公新書|last=度会好一}}</ref>。また『悪魔学』を通して、この裁判から[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が影響を受けて『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』が書かれたともいわれる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|title=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて[[王権神授説]]を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である{{#tag:ref|ジェームズ1世は、1609年の[[イギリスの議会|イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している{{sfn|大野真弓|1975|p=?}}。|group=注釈}}。さらに1599年には『[[:en:Basilikon_Doron|Basilikon Doron]](古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー]]に向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、またスピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている。この本はその後、ヘンリーの弟で次男[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]にも読ませている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Basilikon_Doron|title=Basilikon Doron|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
1606年には、[[北アメリカ]]海岸に[[植民地]]を建設する目的で、[[ジョイント・ストック・カンパニー]]の[[バージニア会社]]に[[勅許会社|勅許]]を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]の建設を進め、また1620年のピューリタンによる[[メイフラワー号]]も有名である。
 
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解した。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていた[[オスマン帝国]]に対しては[[キリスト教徒]]としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった<ref name=":2">{{Cite booksfn|title=世界史をつくった海賊|date=2011.2.10|year=|publisher=ちくま新書|last=竹田いさみ|2011|p=115}}</ref>)
 
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス女王1世時代に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった){{sfn|竹田いさみ|2011|p=113}}。1613年には[[ジャワ島]]のバンテンに商館を持っていて、日本にいる[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていた[[ジョン・セーリス]]が日本に行き、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]親子と交渉して、[[平戸市|平戸]]に[[イギリス商館]]を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在も[[ロンドン塔]]に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris|title=john saris|accessdate=2020.6.3|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>--><ref>{{Cite web|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf|title=日英交流400周年|accessdate=2020.6.03|publisher=}}</ref>。日本の工芸品などで初のイングラド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど<ref>{{Cite booksfn|title=世界と日本の歴史⑥大江一道|date=1988.5|yearp=|publisher=大月書店|last=大江一道181-182}}</ref>)だったため、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された)。
 
インド周辺のコーヒー貿易は、16161606年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、貿易拠点作りのための商館建設交渉は長引き、[[1619年]]東インド会社の巧みな外交によって[[モカ]]港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている<ref name{{sfn|竹田いさみ|2011|p=":2" />151-155}}
 
1613年、娘エリザベスを[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と政略結婚させた。国教会とプロテスタントの連携を目指したもので、「[[テムズ川]]と[[ライン川]]の合流」とまで言われる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Stuart,_Queen_of_Bohemia|title=elizabeth stuart|accessdate=2020.06.03|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
=== 空っぽの頭と言われた王妃 ===
先代のエリザベス1世は倹約家であったことに加えて、本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限であったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供たちがおり、宮廷経費の増大は避けられなかった{{sfn|森護|1986|p=392-393}}
 
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどだった。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部の[[バース (イギリス)|バース]]への大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものがあった。そのため、[[1619年]]に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされることになった。彼女については「空っぽの頭」(Empty Headed)と言う者までいた{{sfn|森護|19881986|p=300400-302,310-311401}}。
 
宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。
 
ただし最近の研究では、ジェームズ1世の時代は[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]など文化的発展の特色がみられた時代で、そのような文化的サロンなどを活発に開き、文化に貢献したと再評価もされている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark|title=ann of denmark|accessdate=2020.06.03|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
=== ハノーヴァー朝につながる娘 ===
長女[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]は、[[1613年]]に[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と結婚した。陽気で美しく慈悲の心を持っていた彼女は、イングランドでも非常に人気が高かった。嫁ぎ先の[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]]でも領民たちから「慈愛の王妃」と呼ばれ慕われるほどであった。しかし、[[三十年戦争|ボヘミア・ファルツ戦争]](ベーメン・プファルツ戦争)で夫が皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に敗れると、全てを失って[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]への[[亡命]]を余儀なくされた。[[1661年]]にイングランドへ帰り、翌[[1662年]]ロンドンで死去した{{sfn|森護|19881986|p=311402-312403}}。
 
ジェームズ1世は1621年に議会を開き、娘夫婦を援助する取り組みを行うが、議会の強い反対によって実現しなかった。後にはスペインとの関係を深めて対処しようとしている<ref name=":0" />。
 
エリザベスは夫との間には13人の子を儲けたが、うち五女[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]は[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]に嫁いだ。ゾフィー以外の兄姉およびその子孫はゾフィ―よりも早世またはカトリック教徒となったため、ゾフィ―が唯一の王位継承者となった。しかし、ゾフィーがステュアート朝最後の君主[[アン (イギリス女王)|アン女王]]に先立って逝去したため、長男が[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]([[ハノーヴァー朝]]の祖)として即位した。今日の[[イギリス王位継承順位|英国王位継承権を保持する人物]]は、全員がゾフィーの子孫である{{sfn|森護|1986|p=403,478-479,481-483}}
 
== 系図 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
<div class="references-small"><references /></div>
 
== 出典 ==
* [[ベンジャミン・ファリントン]]著、[[松川七郎]]・[[中村恒矩]]訳『フランシス・ベイコン <small>-産業科学の哲学者-</small>』[[岩波書店]]、1968年。
* {{Cite book|和書|author=[[ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|G.M.トレヴェリアン]]|translator=[[大野真弓]]|date=1974年(昭和49年)|title=イギリス史 2|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020363|ref=トレ(1974)}}
*[[ 大野真弓]]『世界の歴史8 絶対君主と人民』[[中央公論新社|中央公論社]]([[中公文庫]])、1975年2月。
*de Lisle, Lianda "After Elizabeth"
* [[森護]]『スコットランド英国王室史話』[[大修館書店]]、19881986年。
* 森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。
* [[大江一道]]『世界と日本の歴史⑥』[[大月書店]]、1988年。
* [[塚田富治]]『イギリス思想叢書2 ベイコン』[[研究社|研究社出版]]、1996年。
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
* 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。
* [[木村俊道]]『顧問官の政治学 <small>フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド</small>』[[木鐸社]]、2003年。
* [[石井美樹子]]『エリザベス <small>華麗なる孤独</small>』[[中央公論新社]]、2009年。
* [[竹田いさみ]]『世界史をつくった海賊』[[筑摩書房]]([[ちくま新書]])、2011年。
* 『ベーコン 随筆集』[[成田成寿]]訳、中央公論新社([[中公クラシックス]])、2014年。
* [[小林麻衣子]]『近世スコットランドの王権 <small>-ジェイムズ六世と「君主の鑑」-</small>』[[ミネルヴァ書房]]、2014年。
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(下) <small>清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで</small>』中央公論新社([[中公新書]])、2015年。
 
== 関連項目 ==