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'''リチャード・モンタギュー'''('''Richard Merritt Montague''', [[1930年]][[9月20日]] - [[1971年]][[3月7日]])は、アメリカの[[数学者]]・[[論理学者]]・[[言語哲学者]]
==生涯==
カリフォルニア州[[ストックトン (カリフォルニア州)|ストックトン]]に生まれ、[[1948年]]に[[カリフォルニア大学バークレー校]]に入学。学士号取得後、同大学院に進み、[[数理論理学]]、[[哲学]]、[[アラビア語]]を学ぶ。[[1957年]]、[[アルフレト・タルスキ]]の指導のもと、[[公理的集合論]]に関する論文で[[博士号]]を取得。タルスキ門下では、[[デイナ・スコット]](Dana Scott)と並ぶ大秀才としてその名を轟かせた。
 
[[1955年]]から没するまで[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]で教鞭をとり、門下からニーノ・コッキアレッラ(Nino Cocchiarella)、ハンス・カンプ(Hans Kamp)らを輩出した。
カリフォルニア州[[ストックトン (カリフォルニア州)|ストックトン]]に生まれ、[[1948年]]に[[カリフォルニア大学バークレー校]]に入学。学士号取得後、同大学院に進み、[[数理論理学]]、[[哲学]]、[[アラビア語]]を学ぶ。[[1957年]]、[[アルフレト・タルスキ]]の指導のもと、[[公理的集合論]]に関する論文で博士号を取得。タルスキ門下では、[[デイナ・スコット]](Dana Scott)と並ぶ大秀才としてその名を轟かせた。
 
モンタギューは数理論理学、特に公理的集合論における顕著な業績で知られるが、[[1960年代]]後半より、数理論理学を[[自然言語]]の[[意味論 (言語学)|意味論]]へと応用する研究に移行する。当時、[[自然言語]]の形式的な取り扱いはほとんど不可能だと信じられていたため、モンタギューのこの試みは極めて革新的であった。タルスキより学んだ[[モデル論]]的手法を自然言語に適用する彼の理論は、のちに「[[モンタギュー文法]]」(Montague grammar)として知られるようになり、その後の[[形式意味論]]研究の草分けとなる。
1955年から没するまで[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]で教鞭をとり、門下からニーノ・コッキアレッラ(Nino Cocchiarella)、ハンス・カンプ(Hans Kamp)らを輩出した。
 
[[音楽]]の才にも恵まれ、教会付きオルガニストの代理を務めることもあったモンタギューは、[[ロサンゼルス]]では[[投資]]にも成功し、いくつもの[[不動産]]を所有するほどであった。一方、同性愛者でもあった彼は、指向を同じくする仲間をバーで誘い、自宅に連れ帰ることがたびたびあったという。1971年3月7日、数名の仲間とロサンゼルスの自宅で夜会を開いていたモンタギューは、浴室で絞殺死体となって発見された。犯人は逃走し、事件の真相はいまだに明らかとなっていない。
モンタギューは数理論理学、特に公理的集合論における顕著な業績で知られるが、1960年代後半より、数理論理学を[[自然言語]]の[[意味論 (言語学)|意味論]]へと応用する研究に移行する。当時、自然言語の形式的な取り扱いはほとんど不可能だと信じられていたため、モンタギューのこの試みは極めて革新的であった。タルスキより学んだ[[モデル論]]的手法を自然言語に適用する彼の理論は、のちに「[[モンタギュー文法]]」(Montague grammar)として知られるようになり、その後の[[形式意味論]]研究の草分けとなる。
 
音楽の才にも恵まれ、教会付きオルガニストの代理を務めることもあったモンタギューは、[[ロサンゼルス]]では投資にも成功し、いくつもの不動産を所有するほどであった。一方、同性愛者でもあった彼は、指向を同じくする仲間をバーで誘い、自宅に連れ帰ることがたびたびあったという。1971年3月7日、数名の仲間とロサンゼルスの自宅で夜会を開いていたモンタギューは、浴室で絞殺死体となって発見された。犯人は逃走し、事件の真相はいまだに明らかとなっていない。
 
== 主要著作 ==