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神亀6年([[729年]])[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]後の3月に行われた叙位にて、[[従三位]]に昇叙され公卿に列す。同年6月に再び麻呂が管轄する左京職が甲羅に「天王貴平知百年」(天皇の世は貴く平和で百年続く)との文字のある亀を献上する<ref>『続日本紀』天平元年6月20日条</ref>。同年8月にこの亀は大瑞の物であり、天に坐す神・地に座す神からの善政への祝福の証として現れたとして[[天平]]への改元が行われる<ref>『続日本紀』天平元年8月5日条</ref>。政変を経て発足した武智麻呂が主導する政治体制が、天地の神によって認知されたものであるとの印象を政界に宣伝できる点でも、この瑞祥は効果的であったと考えられる<ref name="km2011-5">木本[2011: 5]</ref>。さらにこの瑞祥は同月に行われた麻呂の妹である[[光明皇后]]の立后にも繋がったと見られる<ref name="km2011-5" />。
 
天平2年([[730年]])9月に[[大納言]]・[[多治比池守]]、天平3年([[731年]])7月に[[大伴旅人]]が没し、高齢の[[中納言]]・[[阿倍広庭]]を除くと、[[知太政官事]]・[[舎人親王]]の下に議政官は大納言・武智麻呂と参議・房前の2人のみの状態となる。こうした中で、同年8月に政務を担当する公卿の減少から事務の管理が困難になったため、政務担当能力のある者を推薦する旨の勅が出される<ref>『続日本紀』天平3年8月5日条</ref>。ここで[[官人]]らの推挙を受けて兄・宇合と共に、麻呂は[[参議]]に任ぜられる。また、参議任官前に[[兵部省#職員|兵部卿]]に任ぜられており、同年11月に畿内に[[惣管]]、諸道に[[鎮撫使 (古代日本)|鎮撫使]]が設置されると山陰道鎮撫使も兼ねた。天平8年([[736年]])聖武天皇の[[吉野]]行幸が行われるが、麻呂の家政機関が[[官司]]に代わって[[調度|調度品]]の調達や運搬した役夫に対する食糧の支払いなど、行幸の支援業務を行っている<ref>奈良国立文化財研究所編『平城京長屋王邸跡・本文編』吉川弘文館、1996年</ref>。
 
天平5年([[733年]])12月にそれまで[[最上川]]河口にあった[[出羽柵]]をさらに北の秋田村高清水の岡に移設し、[[雄勝郡]]を建郡したが<ref>『続日本紀』天平5年12月26日条</ref>、[[陸奥国]]から出羽柵までの往来に時間がかかるようになってしまっていた。この状況の中、[[陸奥按察使]]兼[[鎮守将軍]]・[[大野東人]]が陸奥から出羽柵までの直行路の構築を建言した。これを受けて、天平9年([[737年]])正月に麻呂は持節大使に任ぜられ、[[多賀城|多賀柵]]より雄勝村を経由する陸奥から[[出羽国]]への直通路開削事業を行うために東北地方に派遣される。2月に多賀柵に到着すると、同月から4月にかけて東人が遠征を行い、奥羽山脈を横断して男勝村の蝦夷を帰順させ奥羽連絡通路を開通させる。これを受けて麻呂は4月中旬に征討の完了と徴発した兵士の解散を[[上奏|奏上]]している<ref>『続日本紀』天平9年4月14日条</ref>。
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*[[神亀]]3年([[726年]]) 正月21日:[[正四位|正四位上]](越階)。9月27日:[[装束司]](聖武天皇播磨行幸)
*神亀6年([[729年]]) 3月4日:[[従三位]]
*[[天平]]3年([[731年]]) 3月:[[兵部卿]]<ref>『公卿補任』</ref>。8月11日:[[参議]]。11月22日:[[山陰道]][[鎮撫使 (古代日本)|鎮撫使]]
*天平9年([[737年]]) 正月22日:持節大使