「朝鮮特需」の版間の差分
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戦争勃発直後の[[1950年]]([[昭和]]25年)6月に米軍の在日兵站司令部(Japan Logistical Command)が設けられ、直接調達方式{{efn|直接調達方式とは日本政府を介さないで占領軍/[[国連軍]]との取引をいう。}}により大量の物資が買い付けられた。この在日兵站司令部が[[第8軍 (アメリカ軍)|アメリカ陸軍第8軍司令部]]がある横浜市(横浜税関本庁舎)に併設されたことにより、[[横浜港]]が国連軍の[[兵站]]輸送のための集積地となり、国内外からの兵員や軍事物資の輸送拠点となった。
== 兵器生産 ==
日本企業に対する兵器や砲弾などの生産
== 経済的影響 ==
契約額は[[1950年]]から[[1952年]]までの3年間に特需として10億ドル、[[1955年]]までの間接特需として36億ドルと言われる。
当時、占領軍は日本の物品税、揮発油税を免除されていた<ref>日米行政協定12条3項aおよびc</ref> ため、取引自体からの間接税収入は得られなかった。しかし、特需の恩恵を受けた各種産業の業績が好転したことで、最終的に税収も伸びた。例えば1951年の法人税上位10位すべてが、膨大な土嚢、軍服、天幕を受注した繊維業種であった。発注を受けた企業や関連企業は、敗戦によって中断されていた最新技術を入手できたほか、アメリカ式の[[大量生産]]技術を学ぶ機会を得ることが出来、[[戦前]]の人海戦術的な生産方式から脱却し、再び産業立国になる上で重要な技術とノウハウを手に入れた。それまでの日本の工場生産においては[[品質管理]]的手法が取り入れられておらず、短時間にどれだけ多く生産するかということが重視されたため、不良品がそのまま出荷されるということは珍しいことではなかった。太平洋戦争末期には工程管理という思想は一部では取り入れられつつあったがそれも不十分なものであり、工員個人の技術力により製品の品質が左右される状態は戦後もそのままであった。そのような状況で命を左右する軍用品の製造をすることは認められるはずもなく、直接日本の各工場へアメリカの技術者が出向いて品質管理や工程管理の指導を行った。これにより効率的な量産が行われるようになった。また、三菱重工や小松製作所などの国内主要軍事(防衛)産業は、朝鮮特需と1950年に発足した[[警察予備隊]]に供与された車輌(M4A3E8中戦車、M24軽戦車など)の保守整備や修理を請け負い、米国の製造技術等を吸収し、戦後空白期の技術の遅れを取り戻しつつ、後に、ST([[61式戦車]])などを製造した。そういう意味では日本の産業界の工場生産においては大転換期であり、戦後の高度経済成長の礎となったとも言える。
しかしその一方で市民生活が戦争で潤ったわけではなかった。確かに朝鮮戦争によって日本は4億3000万ドルの貿易外受け取り超過を得た(1951年度)。しかし特需を除くと貿易外経常取引は2億ドルの支払超過、貿易を含めた経常取引で4億8000万ドルの支払超過になっていた。なぜにそれほどの莫大な赤字を抱えたかと言えば、戦前戦中において行われた朝鮮、満州などからの安価な輸入がGHQによる対中貿易禁止令で閉塞されたために「アメリカから資源を買い、アメリカのために生産し、アメリカの言い値で売る」状況に陥っていたからである。
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