「三国史節要」の版間の差分

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== 成立経緯 ==
[[儒教]]的[[名分論]]に抵触する変則的な方法で政権を執った世祖は、自身の名分が弱いことを認識しており、王権を強化する立場から、『三国史記』を基本とし古記類を以て補完する歴史書の編纂を求めた<ref name="naver" />。この時、世祖は我が国の歴史本は遺漏が多く、体系が定まらなかったので、三国史と高麗史を一つの編年に合して編纂するけれども、様々な本から資料を補完せよと命じた<ref name="daebaekkwa" />。そこで、[[1458年]](世祖4年)[[9月]]、世祖は文臣たちに三国史と[[高麗史]]を合わせて『[[東国通鑑]]』を編纂することを命じ<ref name="daebaekkwa" /><ref name="naver" />、[[1463年]]に具体的に東国通鑑庁を設置し<ref name="naver" />て、[[梁誠之]]を主管として数々の儒生を率いて編纂させ、[[申叔舟]]・[[権ラン|権&#25829;]]がこれを監修し、李坡がその出納を受け持つように命じた<ref name="daebaekkwa" /><ref name="naver" />。世祖の『東国通鑑』に対する関心は甚だしかったが、1466年以後、これに関する記録が全く現れない<ref name="daebaekkwa" />。したがって、『東国通鑑』の編纂は、世祖代には完了させられなかった<ref name="daebaekkwa" />。これは、[[元老]][[大臣]]と儒教的名分に徹した[[儒臣]]の反発などで作業がままならないまま世祖が死んで作業が中断したためであるともいう<ref name="naver" />。
 
しかし、[[睿宗 (朝鮮王)|睿宗]]が即位すると『東国通鑑』編纂に参与したことがあった崔淑精は、[[進講|経筵]]で『東国通鑑』編纂を完結するべきことを建議した<ref name="daebaekkwa" />。睿宗はこれを受け入れて編纂を完遂するように措置したが<ref name="daebaekkwa" />、睿宗がすぐに死んだことを以て、編纂作業は再び中断された<ref name="naver" /><ref name="daebaekkwa" />。