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ジョン・ハリントンは[[1613年]]に死去し、その後、建物の所有権は変更を重ね、[[1622年]]に至ってアビーは[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]][[サー]]・{{仮リンク|ウィリアム・クレイヴン (ロンソン市長)|label=ウィリアム・クレイヴン|en|William Craven (Lord Mayor of London)}}の未亡人[[レディ(称号)|レディ]]・エリザベス・クレイヴン (Lady Elizabeth Craven) の所有するところとなり、彼女はこれを息子に遺産として残した。以降300年にわたって、この建物はクレイヴン家が継承することとなった<ref>Coombe Abbey Hotel website. [http://www.coombeabbey.com/our-history/ Online reference]</ref>。
 
== クレイヴン家 ==
[[File:William Craven 1st Earl Craven.jpg|right|thumb|150px|初代クレイヴン伯爵、ウィリアム・クレイヴン准将。]]
クレイヴン家の所有の下、アビーは全面的に開発が重ねられ、様々な建物が増設されたが、その代表は[[1677年]]に建設された西翼であった。その最初の所有者となったのは、レディ・エリザベス・クレイヴンの息子、{{仮リンク|ウィリアム・クレイヴン (初代クレイヴン伯爵)|label=初代クレイヴン伯爵、ウィリアム・クレイヴン准将|en|William Craven, 1st Earl of Craven (1608–1697)}であった。
 
王党派の一員であったウィリアム・クレイヴンは、24歳にしてボヘミア国王フレデリックと王妃エリザベス(かつてのエリザベス王女)をドイツの玉座に復帰させるという使命を与えられた。彼は人生のほとんどを、この務めのために費やし、エリザベスの弟[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ(後のイングランド王チャールズ1世)]]に気に入られた<ref>Royal Berkshire History website. [http://www.berkshirehistory.com/bios/wcraven_eofc.html Online reference]</ref>。
 
[[1662年]]にエリザベスが死去した際には、スチュアート家の家族を描いた絵画のコレクションがウィリアム・クレイヴンに遺贈され、その中には、[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[アンソニー・ヴァン・ダイク|ヴァン・ダイク]]、[[ヘラルト・ファン・ホントホルスト|ホントホルスト]]といった巨匠による作品が含まれていた。これらの絵画作品は今世紀初めまでコーンブ・アビーに置かれていた<ref>Motkin, D. L. 1961 ''The Story of Coombe Abbey'' “Virtus in Actione Consistit “. [http://www.coventry-walks.org.uk/coombe/ca-ch5.html Online reference]</ref> {{リンク切れ|date=2021年3月}}。
 
クレイヴン伯は独身のまま]][[1697年]]に亡くなり、従兄弟の息子にあたる{{仮リンク|ウィリアム・クレイヴン (2代男爵)|label=2代男爵ウィリアム・クレイヴン|en|William Craven, 2nd Baron Craven}}となった。アビーはその後何世代も継承され、[[1769年]]に{{仮リンク|ウィリアム・クレイヴン (6代男爵)|label=6代男爵ウィリアム・クレイヴン|en|William Craven, 6th Baron Craven}}の住まいとなった。彼は、[[1771年]]に、有名な造園家であった[[ランスロット・ブラウン|ケイパビリティ・ブラウン]]に委嘱して、建物や一帯の景観を近代化させた。
 
ブラウンは、自然な川のように見える曲がりくねった湖を造形することに長けていた。彼はスミット川 (Smite Brook) を堰き止めて中心となる湖コーンブ・プール (Coombe Pool) を造り、さらにそれよりは小さいトップ・プール (Top Pool) も造った。この水面は長さが1.5マイル、面積は90エーカーを占め、L字型、ないし、ドッグレッグの形状をもち、一見すると果てがないように見える<ref>Capability Brown website. [http://www.capabilitybrown.org/garden/coombe Online reference]</ref>。彼はさらに、義理の息子[[ヘンリー・ホランド (建築家)|ヘンリー・ホランド]]とともに敷地内に7つの建物を建てたが、そのうちのひとつである艇庫は現存している。コーンブ・パークの動物園 (the menagerie in Coombe Park) も、ケイパビリティ・ブラウンが設計したものである。ドーム状の屋根を乗せた六角形の塔は、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ヴェルサイユ宮殿]]に設けていた王立動物園に触発されたものであった<ref>Capability Brown website. [http://www.capabilitybrown.org/garden/coombe Online reference]</ref>。
 
[[1825年]]、{{仮リンク|ウィリアム・クレイヴン (2代伯爵)|label=2代伯爵ウィリアム・クレイヴン|en|William Craven, 2nd Earl of Craven}}が相続によってコーンブ・アビーの所有者となった。彼は、[[1860年]]に{{仮リンク|ウィリアム・イーデン・ネスフィールド|en|William Eden Nesfield}}を起用して、コーンブの建物の大々的な改築を実施した。新たな、召使いたちの区画が設けられ、東翼と、北翼の一部あは解体されてまったく異なる姿に再建され、装飾的な庭園が設けられて[[堀]]も掘られた<ref>Motkin, D. L. 1961 “The Story of Coombe Abbey” “Virtus in Actione Consistit “. [http://www.coventry-walks.org.uk/coombe/ca-ch5.html Online reference]</ref>。
 
コーンブ・アビーに居住した最後のクレイヴン伯は、{{仮リンク|ウィリアム・クレイヴン (4代伯爵)|label=4代伯爵ウィリアム・クレイヴン|en|William Craven, 4th Earl of Craven}}であった。彼が[[1921年]]に死去すると、妻のクレイヴン伯爵夫人コーネリア (Cornelia Countess of Craven) は、コーンブ・アビーの売却を決めた。[[1923年]]に、建設業者ジョン・グレイ (John Grey) がコーンブ・アビーを買い取った。
 
[[1964年]]11月、[[コヴェントリー市議会]]はコーンブ・アビーと{{convert|150|acre|km2}}の敷地を買い取った。公園は、[[1966年]]に一般公開された。
 
<gallery caption="コーンブ・アビー・カントリー・パーク">
Image:Coombe abbey drive 6y07.JPG|コーンブ・アビーと公園への正面入口。
Image:Coombe abbey - west wing and gardens 18j08.JPG|西翼、湖、庭園。
File:Coombe abbey 6y07.JPG|コーンブ・アビー、正面誘導路からの建物群の眺め。
File:Combe Abbey Brit Ill.jpg|18世紀初めのコーンブ・アビー。[[:en:Jan Kip|Kip and Knyff]]'s ''Britannia Illustrata'' より。
File:Johnson CoombeAbbey HAGAM.jpg|1797年のコーンブ・アビー、Maria Johnson 画。
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== 脚注 ==