「利用者:08-DYI/下書き3」の版間の差分

m
編集の要約なし
m
タグ: 差し戻し済み
m
タグ: 差し戻し済み
ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリーの庶出の兄で王の母方の伯父に当たる初代[[マリ伯爵]][[ジェームズ・ステュアート (初代マリ伯爵)|ジェームズ・ステュアート]]であったが、[[1570年]]にメアリーの支持者によって[[暗殺]]された。次いで、ダーンリー卿の父で王の父方の祖父に当たる{{仮リンク|レノックス伯|en|Earl of Lennox}}[[マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯)|マシュー・ステュアート]]が摂政となったが、この祖父も[[1571年]]に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方の伯父で3人目の摂政となった[[マー伯爵]][[ジョン・アースキン (第18代マー伯)|ジョン・アースキン]]も[[1572年]]に死去し、王の祖母[[マーガレット・ダグラス]]の従弟に当たる[[モートン伯爵]][[ジェイムズ・ダグラス (第4代モートン伯)|ジェイムズ・ダグラス]]が最後に摂政となった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=237-239}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=360}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=41-42}}。
 
1570年にマリ伯が暗殺された後頃から、ジェームズ6世の家庭教師として{{仮リンク|ジョージ・ブキャナン|en|George Buchanan}}と{{仮リンク|ピーター・ヤング (チューター)|en|Peter Young (tutor)|label=ピーター・ヤング}}がついている。ブキャナンは政治に携わり、[[1579年]]頃までジェームズ6世のもとにいたとわれるブキャナンは、[[カトリック教会|カトリック]]に基づく[[王権神授説]]でなく、[[プロテスタント]]に基づく制限された国王論を教えようとしたとも言われている。ジェームズ6世はブキャナンから語学・天文学・数学・歴史・修辞学などを、ヤングからは歴史・神話・地理・医学などを教わり、ギリシャ・ローマの学問を重視した[[人文主義者|人文主義]]的教育を受けて、語学に堪能で博学を誇る君主へと成長した。ただしブキャナンに対する感情は複雑で、英才教育に感謝しながらも短気で教育は厳しい上、よく体罰を与えることもあり母を憎むあまり罪を吹き込むブキャナンを恐れていた。一方、自分に同情的で優しいヤングの方は気に入り、後に結婚のため[[デンマーク]]に派遣する使者に選んでいる{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=240-241}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=36-41,56-58}}。
 
[[1579年]]、ジェームズ6世が成人の統治者となったことを祝う式典が行われた。この時以降、主な居所をそれまでの[[スターリング城]]からエディンバラ城に移すようになった{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=241-242}}。<!--<ref name=":0">{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I|title=james Ⅵ&Ⅰ|accessdate=2020.05.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->
[[1589年]]、カトリック教徒の[[ハントリー侯爵|ハントリー伯爵]]{{仮リンク|ジョージ・ゴードン (初代ハントリー侯爵)|label=ジョージ・ゴードン|en|George Gordon, 1st Marquess of Huntly}}にスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230,233,263}}。同年、[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[フレゼリク2世 (デンマーク王)|フレゼリク2世]](フレデリク2世)の娘[[アン・オブ・デンマーク|アンナ]](アン)と結婚した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。フレデリク2世は[[ティコ・ブラーエ]]を支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Tycho_Brahe|title=Tycho Brahe|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。翌[[1590年]]、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った[[黒魔術]]師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される[[魔女狩り]]騒動が起きている{{enlink|North Berwick witch trials|s=off}}。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学([[デモノロジー]])』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという{{#tag:ref|この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯{{仮リンク|フランシス・ステュアート (第5代ボスウェル伯爵)|en|Francis Stewart, 5th Earl of Bothwell|label=フランシス・ステュアート}}を魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また[[1591年]]にボスウェル伯が[[ホリールード宮殿]]へ侵入する事件が起こり、[[1592年]]にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (第2代マリ伯爵)|en|James Stewart, 2nd Earl of Moray|label=ジェームズ・ステュアート}}を殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=247-254}}{{sfn|度会好一|1999|p=180,251-253}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=221,262}}。|group=注釈}}{{sfn|度会好一|1999|p=175-179}}。また『悪魔学』を通して、この裁判から[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が影響を受けて『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』が書かれたともいわれる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|title=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて[[王権神授説]]を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である{{#tag:ref|ジェームズ1世は、1609年の[[イギリスの議会|イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している{{sfn|大野真弓|1975|p=?}}。|group=注釈}}。さらに[[1599年]]には『{{仮リンク|バシリコン・ドーロン|en|Basilikon_Doron}}(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー]]に向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、またスピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている{{sfn|小林麻衣子|2014|p=4,16,48-49,183-198}}。この本はその後、ヘンリーの弟で次男[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]にも読ませている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Basilikon_Doron|title=Basilikon Doron|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
また[[1596年]]、娘の[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]が生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にも[[エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)|エリザベス]]の名が引き継がれ、この孫娘は[[ルネ・デカルト|デカルト]]の教え子になっている)。
* 「ブリテンの[[ソロモン]]王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、父親がダーンリーではなく母の秘書の{{仮リンク|デイヴィッド・リッチオ|en|David Rizzio}}だろう(デイヴィッド=ソロモンの父[[ダビデ]]のこと)という悪口でもあった。この発言者はフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]と言われている。また、「最も賢明で愚かな王」という発言もアンリ4世、あるいは彼の側近であるシュリー公{{仮リンク|マクシミリアン・ド・ベテュヌ (シュリー公)|en|Maximilien de Béthune, Duke of Sully|label=マクシミリアン・ド・ベテュヌ}}の物とされる{{sfn|森護|1988|p=303}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=230}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=2}}。
* 男色の愛人をしばしば重用、スコットランド王時代ではレノックス公、イングランド王時代ではブリストル伯、サマセット伯、バッキンガム公が愛人に挙げられる。彼等の存在は深刻なトラブルを招き、レノックス公の場合はリヴァンの襲撃、バッキンガム公は宮廷や議会の派閥抗争、サマセット伯に至っては殺人事件を引き起こしている{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。
* 『バシリコン・ドーロン』で君主の振る舞いが人々の判断を左右させることを指摘、中庸を主とした質素な食事、テーブルマナーの礼儀正しさ、服装にも気を使うことを忠告している。反面、ジェームズ1世自身の振る舞いはそうした助言とは程遠い物で、礼儀作法が無い野蛮な言動を同時代人に記録されている。しかし人々が優雅な振る舞いに惑わされること、礼儀を人々の意識に植え付けることが秩序維持に役立つことを熟知しており、『バシリコン・ドーロン』は後世において参考にされるほど政治において重要な作品になっていった。また、服装がだらしなく、男色にふけり派手な宮廷生活に汚職とスキャンダルの噂が絶えないにも関わらず、意見を率直に語り家臣には親しみやすく信頼されていた(対するチャールズ1世は父と全く違う性格で、妻子を大切にする家庭人で、質素な宮廷生活を送り、汚職を厳しく取り締まり、寡黙で近寄りがたい人間だった){{sfn|小林麻衣子|2014|p=190-198}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=7,11}}。
* [[1601年]][[4月15日]]にスコーン・ロッジの[[フリーメイソン]]に加入している<ref name="Grand Lodge">{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/james_vi/james_vi.html |title= James VI of Scotland |accessdate= 2014-9-25 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。
* 1613年に[[ジョン・セーリス]]が船長を務める[[クローブ号]]がジェームズ1世からの書簡と贈呈品をもって[[日本]]の[[長崎市|長崎]]、ついで[[平戸市|平戸]]に到着した。当時、将軍職を退いて[[駿府城]]にいた[[徳川家康]]には[[望遠鏡]](アジアに望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、[[江戸]]にいる将軍[[徳川秀忠]]には金のカップとカバーとイングランド製の布地が贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風が託された。またセーリスは家康の顧問を務めていた英国人[[ウィリアム・アダムス]](三浦按針)の協力を得て、家康から朱印状(貿易許可証)を得て平戸に[[イギリス商館]]を開設している。[[1613年]]にクローブ号は帰国の途に就き、金屏風と鎧はジェームズ1世に届けられた。これをきっかけにジェームズ1世はアジアに関心を持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる<ref>[http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf 2013 年は日英交流 400 周年 ~JAPAN400 のご紹介~]</ref>。