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== 生涯 ==
=== 死 ===
大正2年4月13日、浅草の等光寺において、与謝野寛、[[北原白秋]]、金田一京助、土岐哀果らを発起人として、61名が出席して啄木の一周忌の追悼会が行われた。この会で去る3月23日に、函館の啄木未亡人節子の代理として[[函館市中央図書館|函館図書館]]の[[岡田健蔵]]が上京して、等光寺に埋葬してあった啄木とカツの遺骨を、函館に持ち帰ったことを報告した<ref>[[#(冷水)1968|(冷水)1968]] pp.82-85</ref>。一方、函館図書館でも同じ日に啄木の一周忌の追悼会が開か催さている宮崎郁雨、岡田健蔵が幹事となり、堀合忠操、斎藤大硯、岩崎正ら20名あまりが出席している<ref>[[#(冷水)1968|(冷水)1968]] p.88</ref>。この来会者20余名の席上で、啄木と面識のない斎藤咀華が写真を参考にし、宮崎郁雨ら友人たちの意見も取り入れて、描いた肖像画の油絵が披露されている<ref name="山下157">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.157</ref>。追悼会の数日後、「苜蓿社」時代の啄木の友人・岩崎白鯨は、この絵を一目節子に見せようと、岡田健蔵と連れだって病院を訪ねた<ref name="山下157" /><ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.214</ref>。岡田は絵を前にして、当日の様子について詳しく話し、これを機会に啄木会として「啄木文庫」を創設し、啄木の関係資料の収集や保存をしていくことを約束している。節子は啄木が残した日記、書簡および遺稿など一切を「啄木文庫」に託すことを言い残したと伝えられる<ref>[[#坂本(1998)|坂本(1998)]] p.464</ref>。病室の節子は痩せ衰え、正視できないほどだった。岩崎は節子、咳き込みながら食い絵に見入るようにそとき様子見つめていたという。岩崎は手記にこう書き記している<ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] pp.214-215</ref>。
{{Quotation|その時は見て貰ったら直ぐ持って帰る積りで行ったのだが節子さんが咳入り〱乍ら一心に眺めてゐるものを、とても持って帰る訳に行かなかったそれで、こっそり岡田君に耳打して、飽きたら返して貰う事にして画を置いて二人ハ帰ったそれは僕にしてハ永の別れであった。(中略)外へ出てから岡田君に、画を持って帰るに忍びなかったと云ったら、同君も同感だと云ってうつむいた。岡田君もあれを最後に、節子さんに逢はなかったことと思ふ。|岩崎白鯨}}
節子は啄木の肖像画とともに、残りの二週間ほどの命を生きた<ref name="山下157" />。
 
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* {{Cite book|和書|author=山下多恵子|title=啄木と郁雨 友の恋歌矢ぐるまの花|year=2010|publisher=未知谷|isbn=978-4896423112|ref=山下(2010)}}
* {{Cite book|和書|author=坂本竜三|title=岡田健蔵伝 北日本が生んだ稀有の図書館人|year=1998|publisher=講談社出版サービスセンター|isbn=978-4876014422|ref=坂本(1998)}}
* {{Cite book|和書|author=冷水茂太|title=啄木遺骨の行方|year=1968|publisher=永田書房|asin=B000JA4BMY|ref=()冷水(1968)}}
* {{Cite book|和書|author=|title=|year=|publisher=|isbn=|ref=()}}
 
<ref>[[#()|]] p.</ref>
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