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デュ・ベレーは1522年頃に[[アンジュー]]地方[[リレ]]のチュルムリエール城で生まれた。当時はフランス・[[ルネサンス]]の頃であり、時の国王は[[フランソワ1世_(フランス王)|フランソワ1世]]であった。[[枢機卿]]、[[外交官]]、[[総督]]などを排出した古い貴族の出身だったデュ・ベレーは、10歳にもならない時点で両親を亡くし、兄ルネを後見とした。デュ・ベレーは、父の邸宅であったチュルムリエール城で独りきりという不遇な少年時代を過ごした。そして、彼は森の寂寥の中で黙考したり、[[ロワール川]]のほとりで夢想したりすることに慣れている儚げな青年になった。
 
Kléber Haedens[[司教]]が『フランス文学史』で述べるように、ある夏の日が彼の人生にとって決定的なものとなった。ロワール川沿いの旅籠でピエール・ド・ロンサールと出会ったのである。ロンサールは繊細にして優雅で、寛いで語った。二人はともに20代であった。彼らには共通の親族や友人がいた。ともに軍務に就くことを夢見たが、早期の[[難聴]]が原因で望みを断たれたという。別の説では、彼らの出会いは1547年に[[ポワティエ大学]]の学生の時だった。
 
ロンサールは詩を書いていて、大詩人になることを望んでいた。彼はデュ・ベレーに、パリの[[コレージュ・ド・コクレ]]に入って、古代の書き手たちについて学ぶと説明した。デュ・ベレーは彼も作詩をすることを打ち明けた。ロンサールはデュ・ベレーに一緒に来るよう説得した。彼らは、コレージュ・ド・コクレで優れたギリシャ学者[[ジャン・ドラ]]の指導を受けた。ドラは彼らに古代の書き手たちやイタリアの詩人たちを理解させた。ロンサールとデュ・ベレーはその頃友人たちでグループを作った。これは1549年に「ブリガード」と名付けられ、1553年には[[プレイヤード派]]となる。プレイヤード派は、新たな詩の規律を定義しようとした。