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親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は[[長老派教会|長老派]]の影響が強く、[[アンドリュー・メルヴィル]]らは「聖職者の任命は国王ではなく[[長老制|長老会議]]によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制([[監督制]])を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、[[1592年]]には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、[[1598年]]には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の[[司教]]に{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|label=スコットランド議会|en|Parliament of Scotland}}議員同様の立法活動を許すこととした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=299}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230-231}}。
 
[[1586年]]、ジェームズ6世はイングランドと{{仮リンク|ベリック条約 (1586年)|label=ベリック条約|en|Treaty_of_Berwick_(1586)}}を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、[[1588年]]にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していた[[スペイン]]にも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的に[[アルマダの海戦]]でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]にも接触している{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=300}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=444-445,491,549}}。
 
[[1589年]]、カトリック教徒の[[ハントリー侯爵|ハントリー伯爵]]{{仮リンク|ジョージ・ゴードン (初代ハントリー侯爵)|label=ジョージ・ゴードン|en|George Gordon, 1st Marquess of Huntly}}にスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230,233,263}}。同年、[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[フレゼリク2世 (デンマーク王)|フレゼリク2世]](フレデリク2世)の娘[[アン・オブ・デンマーク|アンナ]](アン)と結婚した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。フレデリク2世は[[ティコ・ブラーエ]]を支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Tycho_Brahe|title=Tycho Brahe|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。翌[[1590年]]、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った[[黒魔術]]師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される[[魔女狩り]]騒動が起きている{{enlink|North Berwick witch trials|s=off}}。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学([[デモノロジー]])』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという{{#tag:ref|この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯{{仮リンク|フランシス・ステュアート (第5代ボスウェル伯爵)|en|Francis Stewart, 5th Earl of Bothwell|label=フランシス・ステュアート}}を魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また[[1591年]]にボスウェル伯が[[ホリールード宮殿]]へ侵入する事件が起こり、[[1592年]]にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (第2代マリ伯爵)|en|James Stewart, 2nd Earl of Moray|label=ジェームズ・ステュアート}}を殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=247-254}}{{sfn|度会好一|1999|p=180,251-253}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=221,262}}。|group=注釈}}{{sfn|度会好一|1999|p=175-179}}。また『悪魔学』を通して、この裁判から[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が影響を受けて『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』が書かれたともいわれる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|title=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である{{#tag:ref|ジェームズ1世は、1609年の[[イギリスの議会|イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している{{sfn|大野真弓|1975|p=?118-119}}。|group=注釈}}。さらに[[1599年]]には『{{仮リンク|バシリコン・ドーロン|en|Basilikon_Doron}}(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー]]に向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、スピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている{{sfn|小林麻衣子|2014|p=4,16,48-49,183-198}}。この本はその後、ヘンリーの弟で次男[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]にも読ませている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Basilikon_Doron|title=Basilikon Doron|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
また[[1596年]]、娘の[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]が生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にも[[エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)|エリザベス]]の名が引き継がれ、この孫娘は[[ルネ・デカルト|デカルト]]の教え子になっている)。
ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた(そのためスコットランドでは[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた)。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年[[10月20日]]の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドの[[イングランドの国旗|セント・ジョージ・クロス]]とスコットランドの[[スコットランドの国旗|セント・アンドリュー・クロス]]を重ね合せた[[ユニオン・フラッグ]]を1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
 
また、イングランド国王就任時から[[アイルランド王国|アイルランド]]は[[植民地]]となっており、先代からの反乱({{仮リンク|アイルランド九年戦争|en|Nine Years' War (Ireland)}})の首謀者・ティロン伯[[ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)|ヒュー・オニール]]はイングランドに降伏していた([[1607年]]に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は[[1608年]]から[[1610年]]まで、アイルランド北部[[アルスター]]地方へ[[ジェントリ]]を通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。[[ロンドンデリー]]はそうした入植で出来た植民地都市である。植民地アイルランドの統一政策も行い、入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少の[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](後の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド伯爵]])を引き取りプロテスタントに養育、[[1613年]]の[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]庶民院の選挙介入も行い、プロテスタントがカトリックより人数を上回るようにした。特にフランシス・ベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=63-64}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=127}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=771,773}}{{sfn|山本正|2002|p=127-129,137,147}}{{sfn|成田成寿|2014|p=208-213}}。
 
==== 外交政策 ====
1606年には、[[北アメリカ]]海岸に[[植民地]]を建設する目的で、[[ジョイント・ストック・カンパニー]]の[[バージニア会社]]に[[勅許会社|勅許]]を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]の建設を進め、またロンドンからの移住者が中心になりイングランド人の植民地建設が進んだ。[[1620年]]のピューリタン([[ピルグリム・ファーザーズ]])による[[メイフラワー号]]も有名である{{sfn|今井宏|1990|p=130-131}}
 
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとはソールズベリー伯の主導で1604年の{{仮リンク|ロンドン条約 (1604年)|label=ロンドン条約|en|Treaty of London (1604)}}で和解した。これには、スペインとフランスの調停者としての役割がジェームズ1世に期待されたからで、国王も期待に応え調停者であることをアピールした{{sfn|岩井淳|2015|p=27-28}}。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていた[[オスマン帝国]]に対しては[[キリスト教徒]]としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118}}{{sfn|竹田いさみ|2011|p=115}}。
 
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった){{sfn|竹田いさみ|2011|p=113}}。1613年には[[ジャワ島]]のバンテンに商館を持っていて、日本にいる[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていた[[ジョン・セーリス]]が日本に行き、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]親子と交渉して、[[平戸市|平戸]]に[[イギリス商館]]を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在も[[ロンドン塔]]に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris|title=john saris|accessdate=2020.6.3|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>--><ref>{{Cite web|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf|title=日英交流400周年|accessdate=2020.6.03|publisher=}}</ref>。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど){{sfn|大江一道|1988|p=181-182}}だったため、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された){{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=135-136}}。
 
インド周辺のコーヒー貿易は、1606年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、貿易拠点作りのための商館建設交渉は長引き、[[1619年]]に東インド会社の巧みな外交によって[[モカ]]港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている{{sfn|竹田いさみ|2011|p=151-155}}。
 
スペインとの和睦に関係して、海軍の弱体化を招いたことは威信の失墜に繋がり、平和主義に則りスペインを苦しめた私掠船の禁止と、財政難のため海軍費用を削減して艦隊整備を怠り、水兵のリストラなど軍縮を行う一方、王立艦隊をイングランド周辺海域の警戒に当たらせた。しかし衰微した海軍では任務が失敗することが多く、[[イギリス海峡]]を渡る外国船は旗を降ろさず、外国船が海域に侵入し船を襲うこともあった。[[北アフリカ]]から[[バルバリア海賊]]も侵入、船の略奪・誘拐が続いても海軍は手も足も出ず、1620年から[[1621年]]にかけて敢行された[[アルジェ]]遠征も失敗、ジェームズ1世の理想主義的平和政策が海上で失敗したことが明らかになった。歴史家[[ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン]]はジェームズ1世が海軍を無視したことを厳しく批判している{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118-119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=129-134}}。
 
1613年、娘エリザベスを[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と政略結婚させた。国教会とプロテスタントの連携を目指したもので、「[[テムズ川]]と[[ライン川]]の合流」とまで言われる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Stuart,_Queen_of_Bohemia|title=elizabeth stuart|accessdate=2020.06.03|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって[[イギリスの議会|議会]]に諮らずに、[[関税]]を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。[[1610年]]、ソールズベリー伯が財政再建策として[[大契約]]を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。
 
危機的な王庫の困窮を少しでも緩和するため、1611年にはアイルランド北部[[アルスター]]地方の植民者を守り、アイルランド人の反乱に備える軍隊の費用を捻出するため、購入が可能な新位階としてイングランド[[準男爵]]位を創設した。[[1619年]]にはアイルランドでも販売を開始した(ジェームズ1世の崩御後にはスコットランドでも準男爵の販売が開始される){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=57}}。
 
=== 絶対王政時代 ===
[[1614年]]からは国王の統一政策への反対の声が強くなったり、財政の逼迫にもかかわらず議会から十分な課税ができないことなど、議会を自らの首を絞める存在として強く意識するようになり、議会を7年ほど開催しなくなる<ref name=":0" />。
 
[[1618年]]に勃発した[[三十年戦争]]において、プファルツ選帝侯[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]はその当事者となったが、[[1621年]]には完全に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]側に押され、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]に亡命する事態になっていた。そのためジェームズ1世は、娘婿を助けようと7年ぶりに議会を開き、資金を集めようとした<ref name=":0" />。このとき中心的に動いた人物としてフランシス・ベーコンがおり、それが故にベーコンは失脚の憂き目に会う。
 
[[1622年]]には[[ホワイトホール宮殿]]の拡張を実施し、[[イニゴ・ジョーンズ]]の設計による[[バンケティング・ハウス]]を完成させた。
* 森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。
* [[大江一道]]『世界と日本の歴史⑥』[[大月書店]]、1988年。
* [[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。
* [[塚田富治]]『イギリス思想叢書2 ベイコン』[[研究社|研究社出版]]、1996年。
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
* [[度会好一]]『魔女幻想 <small>呪術から読み解くヨーロッパ</small>』中央公論新社([[中公新書]])、1999年。
* {{Cite book|和書|author=[[青木道彦]]|date=2000年|title=エリザベス一世 大英帝国の幕開け|series=[[講談社現代新書]]1486|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4120040290|ref=青木(2000)}}
* {{Cite book|和書|author1=[[松村赳]] |author2=[[富田虎男]]|date=2000年|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}}
* 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。
* [[山本正 (歴史学者)|山本正]]『「王国」と「植民地」 <small>近世イギリス帝国のなかのアイルランド</small>』[[思文閣出版]]、2002年。
* [[木村俊道]]『顧問官の政治学 <small>フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド</small>』[[木鐸社]]、2003年。
* 小林幸雄『図説イングランド海軍の歴史』[[原書房]]、2007年。
* [[石井美樹子]]『エリザベス <small>華麗なる孤独</small>』中央公論新社、2009年。
* [[竹田いさみ]]『世界史をつくった海賊』[[筑摩書房]]([[ちくま新書]])、2011年。
* 『ベーコン 随筆集』[[成田成寿]]訳、中央公論新社([[中公クラシックス]])、2014年。
* [[小林麻衣子]]『近世スコットランドの王権 <small>-ジェイムズ六世と「君主の鑑」-</small>』[[ミネルヴァ書房]]、2014年。
* [[岩井淳 (歴史学者)|岩井淳]]『ピューリタン革命の世界史 <small>―国際関係のなかの千年王国論―</small>』ミネルヴァ書房、2015年。
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(下) <small>清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで</small>』中央公論新社(中公新書)、2015年。