「樋端久利雄」の版間の差分
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[[1903年]]([[明治]]36年)[[8月1日]]、[[香川県]]白鳥本町で農業を営む父・樋端荒吉と母・モトの六人兄弟の第五子、三男として生れる<ref>高嶋博視『ソロモンに散った聯合艦隊参謀 伝説の海軍軍人樋端久利雄』芙蓉書房出版28-29頁</ref>。[[香川県立三本松高等学校|大川中学校]]を経て、[[1920年]]([[大正]]9年)[[8月26日]]、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#51期|第51期]]入校。同期に[[小園安名]]、[[山本祐二]]、[[大井篤]]らがいる。樋端は兵学校の前後数クラスで群を抜いた秀才であり<ref>『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』p.138</ref>、将来を嘱望されていた。しかし、人柄は一見鋭さを感じさせないもので、思考に集中しているときは口元が締まらずぼんやりしているように見え、特に体力的に恵まれていたわけではなかった<ref>『帝国海軍士官入門』p.133</ref>。しかし、全校生徒が参加した[[弥山 (広島県)|弥山]]登山競技では1位となった<ref>『ブーゲンビリアの花』p.46</ref>。[[1923年]](大正12年)[[7月14日]]、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#51期|51期]]を[[首席]]で卒業。[[少尉候補生]]、[[練習艦]]「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」乗組。[[1924年]](大正13年)12月、[[少尉|海軍少尉]]に[[任官]]。[[戦艦]]「[[長門 (戦艦)|長門]]」乗組。
[[1926年]]([[大正]]15年)9月、第15期飛行学生着任。[[横須賀海軍航空隊]]付。[[水上機母艦]]「[[能登呂 (水上機母艦)|能登呂]]」乗組。[[霞ヶ浦海軍航空隊]]教官。1928年12月30日、井上繁則(海軍大佐)の娘・千代と結婚<ref>高嶋博視『ソロモンに散った聯合艦隊参謀 伝説の海軍軍人樋端久利雄』芙蓉書房出版323頁</ref>。[[1929年]]([[昭和]]4年)、[[フランス]][[在フランス日本国大使館|駐在日本大使館]]付[[駐在武官|武官補佐官]]。[[軍令部]]付[[国際連盟]]代表随員として[[ジュネーブ海軍軍縮会議|ジュネーブ軍縮会議]]に同行。[[1932年]](昭和7年)、横須賀海軍航空隊[[分隊]]長。樋端の考案した九二式爆撃照準器が採用される。[[1933年]](昭和8年)[[12月1日]]、[[海軍大学校]]([[海軍大学校卒業生一覧#甲種33期|甲種33期]])を入学、 [[1935年]](昭和10年)10月、首席で卒業。{{Main|海軍大学校卒業生一覧#甲種33期}}樋端は[[航空母艦|空母]]の飛行機は全部集め集団として使用し、総合的に攻撃力を発揮すべきとした<ref name=c>『提督小沢治三郎伝』p.26</ref>。教官だった[[小沢治三郎]]は「俺に航空戦術を教えてくれたのは[[山岡三子夫]]、樋端久利雄、それから[[木田達彦]]」と語ってい
[[1940年]](昭和15年)[[11月15日]]、[[海軍省]][[軍務局#海軍省軍務局|軍務局]]第1課A局員<ref name=a></ref>。[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、[[太平洋戦争]]開戦。[[1942年]](昭和17年)[[11月20日]]、連合艦隊航空甲参謀。[[1943年]](昭和18年)[[4月18日]]、[[山本五十六]]連合艦隊司令長官に随行し、前線視察のため訪れていた[[ブーゲンビル島]]上空で、乗機「[[一式陸上攻撃機]]」を[[アメリカ陸軍航空軍]]「[[P-38 (航空機)|P-38]]戦闘機」に[[撃墜]]され[[戦死]]し([[海軍甲事件]])、[[大佐|海軍大佐]]に特進した。樋端の戦死が知らされると若手将校たちから「[[山本五十六|長官]]に代わりはあるが、樋端に代わる人材がいるか、[[日露戦争]]において[[日本海海戦]]を大勝利に導いた[[秋山真之]]参謀に匹敵するとも言われる逸材を失った海軍の損失は余りにも大きい」との声があがった。[[源田実]]は「この人に全海軍の作戦を預けて存分にその明快極まる脳味噌を働かせてもらいたかった。この人がもっと永く生き残り、もっと働ける立場にあったならば、太平洋戦争の様相はもっと変わっていたかもしれない」という<ref name=b></ref>。
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