「印旛沼事件」の版間の差分

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== 裁判 ==
[[裁判]]は本事件後に革命左派が赤軍派と合流して[[連合赤軍]]を結成してから起こした[[山岳ベース事件]]や[[あさま山荘事件]] などとと併せて扱われ、[[吉野雅邦]]は12名が殺害された山岳ベース事件や3名が殺害されたあさま山荘事件よりも本事件における責任を強く追されている。1979年の吉野の第一審判決における[[石丸俊彦]]裁判長の判決文では「のちの山岳ベース事件の十二名に対する場合と異なり、吉野にはこれを拒否する自由が残されていた」、「その犯情は、いかなる弁護をも許されないほど悪質であり、その刑事責任は重大である。その重さは後の山岳ベースの十二名に対するものより遥かに重い」とされ、他の事件への加担と併せて[[無期懲役]]を言い渡されている。
 
また、石丸は「印旛沼事件の主犯は永田洋子である」と位置づけ、「処刑の理由は表向のものに過ぎず、その内実の理由は、組織のことよりも永田が警察に逮捕されることを極度に恐れており、逮捕されることによって自己の指導者としての地位と権力を喪失に至るであろうことを恐れ、あくまでも逮捕を免れて指導者としての地位と権力を保持せんとするためであった。(中略)そしてその実行者として寺岡や被告人吉野を選んだのは、寺岡、被告人吉野、E{{refnest|group=注釈|判決文にはEの本名が入る}}も含めて、いわゆる札幌残留グループのメンバーであり、小袖ベースに入山のころ、そろって永田の批判派に廻っており、(中略)永田が自己の指導体制を維持してゆくためには、この三名を仲間殺害の共犯に仕立てることにより、逆に自己の体制の協力者としてその傘下にいれようとするものであった」と認定した。永田は第一審の検察の論告において「自己の刑責を自ら殺害した者{{refnest|group=注釈|寺岡のこと}}や自殺を遂げた者{{refnest|group=注釈|森のこと}}に押し付けるなどして、卑劣な弁解に終始し、真の反省の態度は全く認められない」とされたが、永田は「発案者は寺岡」と主張し続けた<ref name=":大泉" />。1981年の永田・坂口ら連合赤軍統一組の中野武男裁判長による第一審判決では「殺害した理由に組織防衛的要素があったことを否定するものではないが、そして被告人坂口はまさにその見地から同意したのであるが、しかし被告人永田には右目的のほかAらによって傷つけられた指導者としての自尊心と、逮捕の危険性を作り出したものに対する怒りが心底に存し、これを晴らす意図もあった」<ref name=":第一審" />とし、本事件を「後にくる山岳ベースリンチ殺人の下地を作った」と位置づけ、永田の刑事責任を「他の共犯者に隔絶して重大である」とした<ref name=":第一審" />。また、坂口については「永田の奸策を阻止することができたのは、被告人坂口をおいてはなかった」とし、事件中坂口が「遅疑逡巡し、できればこれを回避したかった」と供述する一方で「殺害反対を表明したことは一度もなかった」ことから坂口の本事件に対する刑事責任は「永田に次いで重大である」とされた<ref name=":第一審" />。