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[[三河国]]の[[土豪]]である[[松平氏]]の第8代当主・[[松平広忠]]の[[嫡男]]として[[天文 (元号)|天文]]11年[[旧暦12月26日|12月26日]](1543年1月31日)[[寅|寅の刻]](午前4時)に[[岡崎城]] にて誕生{{Sfn|中村|1965|p=55}}。母は[[水野忠政]]の娘・[[於大の方|於大]](伝通院){{Sfn|中村|1965|p=55}}。幼名は'''竹千代'''(たけちよ){{Sfn|中村|1965|p=55}}。
 
3歳のころ、水野忠政没後に[[水野氏]]当主となった[[水野信元]](於大の兄)が尾張国の[[織田氏]]と同盟したので織田氏と敵対する[[駿河国]]の[[今川氏]]に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる{{Efn|松平氏では天文12年(1543年)に長く松平広忠の[[名代]](家督代行)を務めていた[[松平信孝 (戦国時代)|松平信孝]](広忠の叔父)が広忠や重臣の[[阿部定吉|阿部大蔵]]らによって追放されているが、広忠と於大の婚姻自体が水野氏と連携関係にあった信孝主導による縁組であり、信孝を排除した結果として水野氏との同盟関係が終了したと新説も出されている。なお、当時の水野氏は複数の流れに分かれており、信元(緒川家)の水野氏が織田方についたことが明確になるのは織田信長が織田氏を継承して知多郡への支配の立て直しを意図した後であり、可能性の1つとして松平広忠の死後に今川氏が安祥松平家を断絶させずに竹千代(家康)を後継者とする方針を決めたことに対する反発が信元離反の一因になったとする指摘もある<ref>[[小川雄]]「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) {{ISBN2|978-4-86602-098-3}} (広忠の婚姻・離縁の問題はP166-168.、信元の今川方離反の時期についてはP168-171.)</ref>。}}。
 
天文16年([[1547年]])8月2日{{Sfn|中村|1965|p=65}}、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として[[駿府]]へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った[[田原城 (三河国)|田原城]]で義母の父・[[戸田康光]]の裏切りにより、[[尾張国]]の[[織田信秀]]へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国[[宮宿|熱田]]の[[加藤順盛]]の屋敷に留め置かれた。このとき[[織田信長]]と知り合ったという伝説があるが、史料にはない<ref>{{Cite book|和書|author = 谷口克広 |authorlink = 谷口克広 |year = 2017 |title = 天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか |series = 祥伝社新書 |pages = 126-127}}</ref>。また、近年の研究{{Efn|この説では、松平広忠が叔父・信孝、戸田氏が牧野氏と争った際に今川義元・織田信秀が共に信孝および牧野氏を支援したことで今川・織田両氏の間に一時的な連携が生じたとする<ref>[[#柴(2017)|柴(2017)]] p.40-41.</ref>。なお、天文期の今川・織田両氏による三河侵攻については[[村岡幹生]]の「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年)をきっかけに岡崎城が織田氏に攻め落とされたことが新たな有力説になっているが、その際の松平広忠の政治的立場については依然として今川方にあったとする村岡と今川からの離反を図ったために今川・織田両氏による三河侵攻が生じたとみる[[平野明夫]](「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)や糟谷幸裕([[大石泰史]] 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 同書天文15年-永禄3年節)らとの議論がある<ref>糟谷幸裕「国衆の本領・家中と戦国大名ー今川領国を事例に」戦国史研究会 編「戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、2018年) {{ISBN2|978-4-86403-308-4}} P145.</ref>。}}では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している<ref>[[#柴(2017)|柴(2017)]] p.41-42.</ref>。
 
2年後に広忠が死去する{{Efn|家臣の[[岩松八弥]]の謀反によって殺害されたとする説がある(『岡崎市史』は暗殺説を採る)一方で、暗殺説は信頼性の低い史料からの付会に過ぎず、岩松による襲撃が事実としてもそれが死因と断定できる根拠はないとする意見もある(村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」)。}}。[[今川義元]]は織田信秀の[[庶長子]]・[[織田信広]]{{Efn|前年の天文18年([[1549年]])、[[安祥城]]を[[太原雪斎]]に攻められ生け捕りにされていた。}}との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府{{Efn|『東照宮御実紀』では少将宮町、『[[武徳編年集成]]』では宮カ崎とされている。}}に移され、岡崎城は今川氏から派遣された[[城代]]([[朝比奈泰能]]や[[山田景隆]]など)により支配された{{Efn|松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある<ref>「今川義元一代記」『[[歴史群像]]』2002年8月号</ref>。また、そもそもの話として幼少の竹千代では松平家中・領国の存続は不可能であり、松平領の安定のためにも駿府で保護する必要性があった<ref>柴裕之「松平元康との関係」「桶狭間合戦の性格」[[黒田基樹]] 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-322-0}} P278・298-300.</ref>。}}{{Efn|近年の研究では、岡崎城そのものには今川氏の城代が入っていたものの、松平領はあくまでも将来的には竹千代が継ぐものであり、今川義元は安祥松平家で唯一岡崎城に残されていた[[随念院]](松平信忠の娘、竹千代の大叔母)を擁した松平家臣団による政務を承認する形で実際の統治が行われたと考えられている<ref>新行紀一「城代支配下の岡崎と今川部将松平元康」(初出:『新編 岡崎市史 中世』第3章第4節第5項・第6項(1989年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-325-1}}) 2019年、P134-141.</ref>。}}{{Efn|『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子([[岡部正綱]])が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。}}{{Efn|なお、この駿府人質時代に[[北条氏規]]も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また、住居が隣同士だったという説もある<ref>『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、[[阿部正信]]著)</ref>。さらに[[浅倉直美]]は北条氏規は関口親永の婿養子であったとする説を唱えている(つまり、氏規の妻とされる女性は築山殿の姉妹ということになる)<ref>浅倉直美「北条氏との婚姻と同盟」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-322-0}} P226-228.</ref>。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、[[狭山藩]]として小藩ながらも廃藩置県まで存続。}}。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、[[本丸]]には今川氏の城代が置かれていたため入れず、[[二の丸]]に入った。
 
天文24年([[1555年]])3月、駿府の今川氏の下で[[元服]]し、今川義元から[[偏諱]]を賜って'''次郎三郎元信'''と名乗り、今川義元の姪で[[関口親永]]の娘・瀬名([[築山殿]])を娶る{{Efn|近年では築山殿の母親を義元の近親または養妹とする説に否定的な説もあるが、それでも関口氏自体が今川氏一門として遇された家であり、関口氏の婿になることはそのまま今川氏の親類衆に加えられることを意味していた<ref>柴裕之「松平元康との関係」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-322-0}} P286.</ref>。}}。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい'''蔵人佐元康'''と改めている{{Efn|祖父の清康、父の広忠の官途名は確認されておらず(名乗る前に早世したためか)、曾祖父である信忠の左近蔵人佐を継ぐ形で今川義元から与えられたものと考えられる<ref>新行紀一「城代支配下の岡崎と今川部将松平元康」(初出:『新編 岡崎市史 中世』第3章第4節第5項・第6項(1989年)/大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-325-1}}) 2019年、P144.</ref>。}}。
 
なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係については[[吉良氏]]との関係を考慮する必要があるとする指摘もある。吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏[[御一家]]の一つで、今川氏の宗家筋であった。吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、[[松平信忠]]は[[吉良義信]]、松平清康は[[吉良持清]]、松平広忠は[[吉良持広]]の偏諱を得たと推定されている。今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏の次期当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる<ref name="天文・弘治年間の三河吉良氏">[[小林輝久彦]]「天文・弘治年間の三河吉良氏」(初出:『安城市歴史博物館研究紀要』12号(2012年)/大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-325-1}}) 2019年、P273-276.</ref>。
 
当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており([[三河忿劇]])、[[永禄]]元年([[1558年]])2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡[[寺部城]]主・[[鈴木重辰 (日向守)|鈴木重辰]]を攻めた。これが[[初陣]]であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付{{Efn|山中は岡崎城が織田軍に落とされたとされる天文16年9月から間もない天文17年(1548年)1月に今川義元によって奥平貞能に与えられていたが、その貞能は三河忿劇において反今川派に属していた<ref>大石泰史「今川氏と奥平氏-〈松平奥平家古文書写〉の検討を通じて」(初出:『地方史静岡』21号(静岡県立中央図書館、1993年)/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-325-1}}) 2019年、P162-164・169-170.</ref>。}}し、腰刀を贈った{{Sfn|中村|1965|p=92}}。永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条から定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた<ref>新行紀一「城代支配下の岡崎と今川部将松平元康」(初出:『新編 岡崎市史 中世』第3章第4節第5項・第6項(1989年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) {{ISBN2|978-4-86403-325-1}}) 2019年、P149-151.</ref>。
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永禄4年([[1561年]])先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ('''[[清洲同盟]]''')(『史料総覧』巻10){{Sfn|谷口|2012|p=82-89}}。同年4月[[西三河]]で今川氏との戦いが開始された。永禄5年([[1562年]])には、家康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている{{Efn|一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である{{Sfn|谷口|2012|p=83-86}}。}}{{Sfn|谷口|2012|p=82-89}}。{{要出典範囲|一方、将軍・足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。|date=2020年5月}}
 
永禄6年([[1563年]])には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から'''家康'''と名を改めた。「家」を選んだ理由は明確ではないが<ref>[[中村孝也]]『新訂 徳川家康文書の研究』上巻、吉川弘文館 2017年「第二篇 岡崎在城の時代」</ref>、[[菊地浩之]]は於大の方の再婚相手である[[久松俊勝]]が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたとする説を唱えている<ref>菊地浩之『徳川家臣団の謎』角川書店<角川選書>、2016年 {{ISBN2|978-4-04-703598-0}} pp.100-101</ref>。同年3月には、同盟の証として嫡男竹千代([[松平信康|信康]])と信長・娘[[徳姫|五徳]]との婚約が結ばれる。
 
永禄7年([[1564年]])、[[三河一向一揆]]が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の[[戸田氏]]や[[西郷氏]]といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて[[鵜殿氏]]のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱([[遠州忿劇]])の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で[[宝飯郡]]を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年([[1566年]])までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:[[石川家成]](後に[[石川数正]]))・東三河衆(旗頭:[[酒井忠次]])・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には[[旗本先手役]]を新たに置いた。
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=== 今川領遠江への侵攻 ===
永禄11年([[1568年]])、信長が室町幕府13代[[征夷大将軍|将軍]]・足利義輝の弟・[[足利義昭|義昭]]を奉じて[[上洛]]の途につくと、家康も信長への援軍として[[松平信一]]を派遣した。同年1月11日、家康は[[京職|左京大夫]]に任命されている(『[[歴名土代]]』)。左京大夫は歴代[[管領]]の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり{{Efn|[[細川氏]]嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、[[足利義澄]]-[[細川政元]]期の[[赤松政則]]、[[足利義稙]]-[[細川高国]]期の[[大内義興]]、[[足利義晴]]-[[細川晴元]]期の[[六角義賢]]がこれに該当する。}}、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した[[武家執奏]]であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた<ref>木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年、pp114-116、{{ISBN2|978-4-642-02904-9}}。</ref>{{Efn|一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に[[三好三人衆]]討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書<ref>「武田神社文書」九月十四日付足利義昭御内書</ref>の宛名が徳川改姓・三河守任官以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている<ref>[[木下昌規]]「室町幕府将軍足利義昭と徳川家康」(初出:『戦国史研究』63号、2012年 / 所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 {{ISBN2|978-4-87294-875-2}})</ref><ref group="注釈">後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると、義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。</ref>。}}。
 
同年12月6日、[[甲斐国]]の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると([[駿河侵攻]])、家康は[[酒井忠次]]を取次役に遠江割譲を条件として[[武田氏]]と同盟を結び、13日、[[遠江国]]の今川領へ侵攻して[[浜松城|曳馬城]]を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。
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なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・[[大般若長光]]を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]を正室とさせている。だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。軍事行動でもこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式だったが、以後は信長臣下としての参軍となる {{Sfn|谷口|2012|pp=229-233|ps=、引用先は平野昭夫『徳川権力の形成と発展』第2章「織豊大名徳川氏」}}。
 
天正3年(1575年)、家康は唐人五官(五官は通称か)に浜松城下の屋敷と諸役免除を認める朱印状を発行しており、懸塚湊や上流の[[馬込川]]に中国商船が来航して浜松城下にて貿易を行っていたことが知られている。五官の名は『慶長見聞録』にも登場しており、五官の名を持つ唐人はその後家康に従って江戸に移住したとみられている<ref>[[久保田昌希]]「中世後期東日本への唐船来航」『戦国・近世初期 西と東の地域社会』橋詰茂 編、岩田書院、2019年6月。{{ISBN2|978-4-86602-074-7}} P414-416.</ref>。
 
天正6年([[1578年]])、[[越後国|越後]][[上杉氏]]で急死した[[上杉謙信]]の後継者を争う[[御館の乱]]が発生し、武田勝頼は[[北信地方|北信濃]]に出兵し乱に介入する。謙信の養子である[[上杉景勝]](謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の[[上杉景虎]](謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。翌天正7年([[1579年]])9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は[[横須賀城]]などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。
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なお、これに先立って天正17年([[1589年]])7月から翌年にかけて「[[五ヶ国総検地]]」と称せられる大規模な[[検地]]を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって[[関東地方|関東]]へ領地を[[移封]]されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得た知識と経験は新領地の関東統治に生かされた。
 
[[天正]]18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、[[武蔵国]]・[[伊豆国]]・相模国・上野国・[[上総国]]・[[下総国]]・[[下野国]]の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり{{Efn|[[ルイス・フロイス]]によると、[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ|オルガンティーノ]]は[[1588年]][[5月6日]]付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書いている<ref>フロイス『[[フロイス日本史|日本史]]』第63章</ref>。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は[[松田毅一]]・[[川崎桃太]]によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある<ref>{{Cite journal|和書|author=フロイス, [[服部英雄]], 曽田菜穂美 |title=翻訳・フロイス『日本史』3部1-4章 |url=https://doi.org/10.15017/1456058 |journal=比較社会文化 : 九州大学大学院比較社会文化学府紀要 |publisher=九州大学大学院比較社会文化学府 |year=2014 |volume=20 |pages=31-52 |issn=1341-1659 |naid=120005456972 |doi=10.15017/1456058}}</ref>。}}、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが<ref name="sengoku4534" />、結局北条氏の旧領国に移されることになった。
 
秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった<ref>[[#柴(2017)|柴(2017)]] p.188</ref>。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている(『家忠日記』天正20年2月6日条)<ref>[[#柴(2017)|柴(2017)]] p.191</ref>。
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慶長2年([[1597年]])、再び[[文禄・慶長の役#慶長の役|朝鮮出兵]]が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、[[朝鮮半島]]の沿岸部で地盤固めに注力した。このときも家康は渡海しなかった。
 
慶長3年([[1598年]])、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である[[豊臣秀頼]]を補佐するための[[五大老]]・[[五奉行]]の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた<ref name="owada">{{Cite book |和書 |author= [[小和田哲男]] |year= 2007 |title= 駿府の大御所 徳川家康 |publisher= 静岡新聞社 |series= 静新新書}}</ref>。しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと[[東国]]の[[大名]]は[[名護屋]]残留であった。
 
=== 秀吉死後 ===
348行目:
このころより家康は、[[細川忠興]]や[[島津義弘]]、[[増田長盛]]らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、[[大老]]・[[前田利家]]や五奉行の[[石田三成]]らより「専横」との反感を買い、慶長4年([[1599年]])1月19日、家康に対して[[三中老]]の[[堀尾吉晴]]らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。
 
3月3日の利家病死直後、[[福島正則]]や[[加藤清正]]ら[[七将|7将]]が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]の協力で大坂を脱出して伏見城内の[[伏見城#城郭|治部少丸]]に逃れたが<ref>笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽―」(『日本研究』22集、2000年)</ref>、家康の仲裁により三成は奉行の退任を承諾して[[佐和山城]]に[[蟄居]]することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている[[高台院|北政所]]の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され<ref>{{Cite journal|和書 |author = 宮本義己 |date = 2000 |title = 徳川家康の人情と決断―三成"隠匿"の顛末とその意義― |journal = 大日光 |issue= 70号}}</ref>、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。もっとも、家康と三成は対立一辺倒ではなく協調を模索する時期もあり、家康は中立的な立場からの解決して双方の均衡を保とうとしたが、それが却って政争を悪化させたとする見方もある<ref name="tani">[[谷徹也]]「総論 石田三成論」谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) {{ISBN2|978-4-86403-277-3}})p60-61</ref>。
 
 
9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、[[重陽]]の[[節句]]における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・[[石田正澄]]の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。
 
9月9日に登城した際、[[前田利長]]・[[浅野長政]]・[[大野治長]]・[[土方雄久]]の4名が家康の[[暗殺]]を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして{{Efn|他にも加藤清正や宇喜多秀家および細川忠興の計画への関与の噂もあった。また、石田三成は増田・長束両奉行とともに家康に協力的な立場を取ったという<ref name=tani/>。}}、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で[[蟄居]]させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国[[水戸市|水戸]]の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては[[加賀征伐]]を企図するが、利長が生母・[[芳春院]]を江戸に人質として差し出し<ref>高沢裕一「前田利長」『国史大辞典』吉川弘文館。</ref>、出兵は取りやめとなる{{Efn|ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある<ref>[[大西泰正]]「織豊期前田氏権力の形成と展開」(大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 前田利家・利長』(戎光祥出版、2016年) {{ISBN2|978-4-86403-207-0}}))P28-36</ref>。}}。これを機に[[前田氏]]は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。
 
またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。
* [[対馬国]]の[[宗義智]]に1万石を加増。その家臣の[[柳川智永]]を従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)<ref name="村川2000"/>{{Sfn|村川|2013}}。
* [[遠江国]]・[[浜松]]12万石の[[堀尾吉晴]]に[[越前国]]・[[府中]]5万石を加増。
* [[美濃国]]・[[金山]]7万石の[[森忠政]]を[[信濃国]]・[[川中島]]13万7,000石に加増移封。
378行目:
さらに三成らは[[伊勢国]]、[[美濃国]]方面に侵攻した。家康は下野国[[小山城 (下野国)|小山]]の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、[[上方]]に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした[[関ヶ原の戦い#東軍|東軍]]が結成されていった([[関ヶ原の戦い#小山評定|小山評定]])。
 
東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし[[榊原康政]]、[[大久保忠隣]]、本多正信らを付けて[[宇都宮城]]から[[中山道]]を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて[[東海道]]から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、7月24日から、9月14日までの間に関ヶ原合戦に関する内容の文書だけでも、外様の諸将82名に155通、家康の近臣に20通ほどの文書を送っている<ref>[[二木謙一]]『関ケ原合戦―戦国のいちばん長い日―』(中央公論社、1982年)41頁</ref>。
 
正則ら東軍は、[[清洲城]]に入ると、[[関ヶ原の戦い#西軍|西軍]]の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る[[岐阜城]]を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。
445行目:
同年3月28日、二条城にて秀頼と会見した。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は[[織田長益|織田有楽]]を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり<ref>本多隆成「Ⅴ.大所政治の展開-慶長十六年の画期」『定本 徳川家康』吉川弘文館、2010年、pp236-239。</ref>、4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれる{{Sfn|村川2013-2|pp=117-118}}。
 
同年、[[ヌエバ・エスパーニャ]](現在の[[メキシコ]])副王[[ルイス・デ・ベラスコ]]の使者[[セバスティアン・ビスカイノ]]と会見し、スペイン国王[[フェリペ3世]]の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない<ref name="宮本1992">{{Cite journal|和書 |author = 宮本義己 |date = 1992 |title = 徳川家康公の再評価 |journal = 大日光 |issue= 64号}}</ref>。
 
慶長18年([[1613年]])、[[イギリス東インド会社]]の[[ジョン・セーリス]]と会見。イングランド国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸に[[イギリス商館]]の開設を許可した。
517行目:
神号は側近の[[天海]]と[[以心崇伝|崇伝]]、[[神龍院梵舜]]の間で、[[権現]]と[[明神]]のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、[[山王神道#山王一実神道|山王一実神道]]に則って[[薬師如来]]を本地とする権現とされた。この後、[[小槻孝亮]]が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示し<ref name="今谷(1993) p.157-158"> 今谷(1993) p.157-158</ref>、また一説によると[[菊亭晴季]]も「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した<ref name="今谷(1993) p.157-158"/>。'''日本大権現'''が有力候補であったが、元和3年(1617年)2月21日に'''東照大権現'''の神号、3月9日に[[神階]][[正一位]]が贈られる。
 
また、東照社は[[今川直房]]と[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]の尽力により[[正保]]2年([[1645年]])11月3日に宮号宣下があり、[[日光東照宮|東照宮]]となり{{Efn|[[野村玄]]によれば、当時国内では[[寛永飢饉]]、国外では[[明]][[清]]交替と鎖国令に伴う[[ポルトガル]]の報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、[[元寇]]のときの[[風日祈宮|風宮]]改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする<ref>野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂、2006年、P38-45</ref>。}}、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として'''東照神君'''、'''権現様'''とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。
 
現在も久能山東照宮の神廟を徳川家康の墓所とし<ref name="徳川恒孝(静岡商工会議所会報誌『Sing』2016年3月号第1ページ) 『駿府静岡と私 家康公と静岡』">[[徳川恒孝]](静岡商工会議所会報誌『Sing』2016年3月号第1ページ) 『駿府静岡と私 家康公と静岡』</ref>、他の霊廟としては日光東照宮において墓所を象った神社としての奥宮、[[松平氏]]の[[菩提寺]]である[[愛知県]][[岡崎市]]の[[大樹寺]]や[[高野山]]にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。また、[[臨済宗]]の寺院としては、[[東福寺]]の塔頭である[[南明院]]が徳川家牌所である。なお、徳川将軍15人中[[寛永寺]]か[[増上寺]]のどちらにも墓所がないのは家康以外には[[徳川家光]]と[[徳川慶喜]]がいる{{Efn|徳川慶喜の墓地がある「[[谷中霊園|谷中墓地]]」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。}}。
<gallery>
Tokugawa Ieyasu-2.jpg|久能山東照宮 徳川家康 神廟(2016年11月13日撮影)
768行目:
: 家康着用の[[辻ヶ花染]]の[[小袖]]は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmの長さがあるため、身長は155cmから160cmと推定される{{Sfn|宮本|1992|p=151}}。
; 容貌
: 家康に謁見したルソン総督[[ロドリゴ・デ・ビベロ]]は、著作の『[[ドン・ロドリゴ日本見聞録]]』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、[[侍女]]に結ばせていた(『岩淵夜話』){{Sfn|宮本|1992|p=142}}。後世の書には非常な肥満体で醜男であったとされている([[神沢杜口]]『翁草』1776年)<ref>{{Cite book |和書 |author= [[桑田忠親]] |year= 1982 |title= 徳川家康名言集 |publisher= 廣済堂出版 |page= 250}}</ref>。
; 武術の達人
:* 剣術は、新当流の有馬満盛、[[上泉信綱]]の[[新陰流]]の流れをくむ神影流{{Efn|『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流。}} 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。[[文禄]]2年([[1593年]])に[[小野忠明]]を200石([[一刀流]]剣術の[[伊東一刀斎]]の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年([[1594年]])に新陰流の[[柳生宗矩]]{{Efn|[[柳生宗厳]]と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。}} を召抱える。[[塚原卜伝]]の弟子筋の[[松岡則方]]より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
775行目:
:* 鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
; 好学の士
: 家康は実学を好み、[[板坂卜斎]]は家康について「『[[論語]]』『[[中庸]]』『[[史記]]』『[[貞観政要]]』『[[延喜式]]』『[[吾妻鑑]]』を好んだ」と記載している{{Sfn|宮本|1992|p=33}}。家康はこれらの書物を関ヶ原以前より[[木版印刷|木版]]([[伏見版]])で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し<ref>「今又北条本ヲ得サセラレテ、校正開板ノ命アリシナルヘシ、」『御本日記続録』</ref>、また林羅山に抄出本を作成させており<ref>「右東鑑綱要一冊、奉釣命所為撰抄者也、」『羅山先生文集』</ref>、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。また『[[源氏物語]]』の教授を受けたり、[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]から[[幾何学]]や[[数学]]を学ぶなど、その興味は幅広かった。
: 古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「[[紅葉山文庫#富士見亭御文庫|駿河御譲本]]」と呼ばれ伝わっている。
: 南蛮から贈られた薄石が[[瑪瑙]]と知らされたおり、『[[本草綱目]]』で確認させたように実証的であった{{Sfn|宮本|1992|p=33}}。
859行目:
 
=== 源氏への復姓時期について ===
家康は[[永禄]]4-6年ごろの文書では[[本姓]]として「源氏」を使用しており、永禄9年([[1566年]])に「徳川」を名乗った際に藤原氏に改姓しているが、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。かつては近衛前久による年代不明の書状が「(改姓は)将軍望に付候ての事」としていることから{{Sfn|笠谷|1997|p=34}}、[[関ヶ原の戦い]]の勝利後、征夷大将軍任官のため吉良氏系図を借用{{Efn|吉良氏は安城松平家(徳川宗家)にも影響を与えた三河の名族というだけではなく、足利氏の有力な庶流として御一家に列せられた一族であった<ref name=天文・弘治年間の三河吉良氏/>。[[谷口雄太]]は「新田氏流」という概念は『太平記』の影響によって後世作り出されたフィクションで、室町・戦国期には新田氏は足利氏の庶流・一門として扱われていたとする(当然、世良田氏や得河氏も足利一門ということになる)認識から、家康は徳川氏を(新田氏ではなく)将軍・足利氏の一門として位置づけるために実際に有力一門である吉良氏の系図の借用を行ったとしている<ref>谷口雄太「足利一門再考 -[足利的秩序]とその崩壊-」『史学雑誌』122巻12号(2013年)/所収:谷口『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文社、2019年) {{ISBN2|978-4-642-02958-2}} 2019年、P184-191・202.</ref>。}}して系図を加工し、源氏に戻したというのが通説であった<ref name="前久" />{{Sfn|笠谷|1997|p=33-42}}。
 
しかし[[米田雄介]]が[[官務]][[壬生家]]の文書を調査したところ、天正20年9月の[[清華家|清華成]]勅許の口宣案において源氏姓が用いられているなど{{Sfn|笠谷|1997|p=44}}、秀吉生前からの源氏使用例が存在している。[[笠谷和比古]]は、天正16月4月の[[後陽成天皇]]の[[聚楽第]]行幸の様子を収めた『聚楽行幸記』には、家康が「[[大納言]]源家康」と誓紙に署名しているという記述があることから、源氏への復姓は少なくともこの時期からではないかと見ている{{Sfn|笠谷|1997|p=44-46}}、
985行目:
:* 二女・[[督姫]](母:西郡局) - [[北条氏直]]室のちに[[池田輝政]]室
:* 三女・[[正清院|振姫]](母:下山殿) - [[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]]・[[浅野長晟]]室
:* 四女・[[松姫 (徳川家)|松姫]](母:お梶)
:* 五女・[[市姫]](母:お梶)
}}
1,245行目:
}}
* 『二条城、[[学研パブリッシング]]〈[[歴史群像]] 名城シリーズ 11〉、1996年5月。
* {{Cite book|和書 |year = 1996 |title = ビスカイノ金銀島探検報告 |others = [[村上直次郎]](訳) |publisher = 雄松堂出版 |series = 異国叢書 8 |ref = {{SfnRef|ビスカイノ}}}}
* {{Citation | 和書
| last = 新行