「范陽邁2世」の版間の差分

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[[范陽邁1世]]の子<ref name="Sharma107"/><ref name="Coedes57">{{Harvnb|Cœdès|p=57}}</ref>。初名を'''范咄'''({{Lang-vi|Phạm Xót}})といったが、父王の死後に即位すると、父にあやかって「陽邁」と改名した。[[430年]]に[[南北朝時代 (中国)|南朝]][[宋 (南朝)|宋]]に遣使して[[交州]]と睦まじくしないことを伝え、許しを求めた。翌[[431年]]には百隻余りの船団をもって[[日南郡]]に侵攻した<ref name="Coedes57"/>。婚儀に出かけて不在であった時に、交州[[刺史]]の阮弥之の反撃を受け、その従弟の奮威将軍阮謙之率いる軍に{{仮リンク|クルン|vi|Khu Túc}}を包囲された<ref name="Coedes57"/>が、暴風雨の影響もあって持ちこたえることができた<ref name="Coedes57"/>。范陽邁2世は交州を攻めようとして<ref name="Coedes57"/>[[扶南国|扶南]][[カンボジア君主・国家元首一覧|王]]{{仮リンク|シュリ・インドラヴァルマン1世|ru|Шри Индраварман}}に援兵を求めたが、断られた<ref name="Coedes57"/>。[[432年]][[5月 (旧暦)|5月]]には宋に朝貢の使者を送り、以前のように日南郡をチャンパに帰属させるように求めたが、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]に道が遠いことを理由に拒絶された。以降も[[433年]]・[[436年]]・[[437年]]・[[440年]]に朝貢を行ったがなおも交州への侵攻をやめなかった。
 
[[446年]][[2月 (旧暦)|2月]]、文帝は宋に朝貢しながらも物品が少なく、さらにはしばしば交州を劫掠していることを理由に交州刺史の{{仮リンク|檀和之|zh|檀和之}}に林邑討伐を命じ、振武将軍[[宗カク|宗{{Lang|ko|}}]]の率いる軍が侵攻してきた<ref name="Coedes57"/>。宋軍が先鋒を蕭景憲としたのを聞いて恐れた范陽邁2世は金銀を贈って、侵略した日南郡の民戸を返そうとしたが、大臣の{{Lang|ko|䓯}}僧達(『[[南斉書]]』では{{Lang|ko|昪}}僧達、『[[南史]]』では{{Lang|ko|愺}}僧達とする)に諌められて翻意した。帰順する気があるか宋軍から府戸曹参軍の姜仲基が遣わされてきたが、これを捕らえたために檀和之の怒りを招いた。大帥の{{仮リンク|范扶龍|zh|范扶龍}}が守るクルンが宋軍に包囲される<ref name="Coedes57"/>と将軍の{{仮リンク|范ヒ沙達|label=范{{Lang|ko|毗}}沙達|zh|范昆沙達}}を范扶龍の救援に差し向けた。しかし、范{{Lang|ko|毗}}沙達は宗{{Lang|ko|愨}}の伏兵に遭って敗北し、[[5月 (旧暦)|5月]]には范扶龍も敗死してクルンは陥落した<ref name="sakurai64">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=64}}</ref>。
さらに勢いに乗じた宋軍が王都{{仮リンク|シンハプラ|vi|Simhapura}}に迫ると、范陽邁2世は[[戦象]]を出して応戦した。しかしこれも宗{{Lang|ko|愨}}の機転によって宋軍が[[ライオン|獅子]]を模ったものを立てると、象は驚いて逃走したために大敗を喫した。范陽邁2世はその子とともに逃亡し、シンハプラも宋軍の手に落ちて<ref name="Coedes57"/>黄金数十万金を奪われた<ref name="sakurai65">{{Citation|和書|last=桜井|first=由躬雄|contribution=南シナ海の世界|title=東南アジア史 I 大陸部|pages=65}}</ref>。宋軍が引き上げた後にシンハプラに戻ったが、家屋が荒らされて人もまばらな有様を見て憤り、心臓発作を引き起こして死去した<ref name="Coedes57"/>。