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派閥抗争は議会解散後も続き、ペンブルック伯・アボット・{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}{{仮リンク|ラルフ・ウィンウッド|en|Ralph Winwood}}らプロテスタント派はノーサンプトン伯と甥の[[サフォーク伯]][[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]と[[サマセット公|サマセット伯]][[ロバート・カー (初代サマセット伯)|ロバート・カー]]らカトリック派から国王を引き離すため、[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]](後の[[バッキンガム公]])を国王に近付けさせた。国王から寵愛されたヴィリアーズは期待に応え1618年にサフォーク伯を失脚させ、サマセット伯も1615年に政略結婚に絡んだ殺人でベーコンに告発され失脚、プロテスタント派の勝利でヴィリアーズが台頭(1616年にバッキンガム子爵、1617年に伯爵、1623年に公爵に叙爵){{sfn|塚田富治|1996|p=188}}、{{仮リンク|ミドルセックス伯爵|en|Earl of Middlesex}}{{仮リンク|ライオネル・クランフィールド (初代ミドルセックス伯爵)|label=ライオネル・クランフィールド|en|Lionel Cranfield, 1st Earl of Middlesex}}が財政改革に乗り出したが、赤字を解消出来ず1621年に議会召集せざるを得なかった{{sfn|今井宏|1990|p=162-163}}{{sfn|塚田富治|2001|p=116-117}}{{sfn|木村俊道|2003|231-235}}。
 
時期は前後して、司法でコモン・ロー法律家で裁判官[[エドワード・コーク]]とも対立する。コモン・ロー信奉者のコークは1606年に{{仮リンク|民事高等裁判所首席裁判官|en|Chief Justice of the Common Pleas}}に就任してからコモン・ローを扱う裁判所を擁護、[[エクイティ]]の裁判所や王権と権限や管轄争いを引き起こした。ジェームズ1世はベーコンと共に国王大権を擁護して対抗しつつもコークとの和解の道を探り、1613年に彼を{{仮リンク|イングランド・ウェールズ首席裁判官|label=王座裁判所首席裁判官|en|Lord Chief Justice of England and Wales}}へ転任させたが、コークが一向に翻意せずコモン・ロー裁判所を拠点にして国王大権と対立し続けたため、1616年にコークを罷免した。一方、コークとの争いで一貫して国王を理論で擁護したベーコンを[[法務長官 (イギリス)|法務長官]](1613年)、枢密顧問官、[[国璽尚書]](1617年)、[[大法官]](1618年)に昇進させ、同年に[[ヴェルラム男爵]]、1621年にはセント・オールバンズ子爵に叙した{{sfn|今井宏|1990|p=158}}{{sfn|塚田富治|1996|p=131-137,149-158,168-169,186-187}}{{sfn|木村俊道|2003|193-198}}{{sfn|石井栄一|2016|p=62-68}}。
 
1618年に勃発した三十年戦争において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世はその当事者となったが、1621年には完全に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]側に押され、オランダに亡命する事態になっていた。そのためジェームズ1世は娘夫婦を援助する取り組みを行い、7年ぶりに議会を開き資金を集めようとしたが、議会の強い反対によって実現しなかった{{sfn|君塚直隆|2015|p=10}}。この時中心的に動いた人物としてベーコンがおり、それが故に彼は失脚の憂き目に会う{{sfn|大野真弓|1975|p=122-123}}{{sfn|木村俊道|2003|p=254-255}}。
 
議会は初め14万5000ポンドの特別税徴収を認めたが、ジェームズ1世が提案したプファルツへの援軍派遣による追加予算を認めなかった。独占権の濫用による商業の専売が問題になりバッキンガム侯が独占権関与で議会から追及される恐れが出ると、ジェームズ1世は事態収拾に動き一部の業者から独占権を取り上げ、バッキンガム侯の非難をかわすため議会によるベーコンの収賄容疑の弾劾を受け入れ、彼をスケープゴートにして失脚へ追い込んだ。その後外交問題が議題に上ると、外交が国王大権のためスペインとの戦争を主張する議会に激怒して反対、[[議会の大抗議]]を発表して言論の自由を盾に尚も食い下がる議会に更に腹を立て、議会を解散して大抗議の首謀者であるコーク、[[ジョン・ピム]]らを投獄した(ピムは自宅軟禁で済んだとも){{sfn|浜林正夫|1959|p=72}}{{sfn|今井宏|1990|p=163-165}}{{sfn|塚田富治|1996|p=188-197}}{{sfn|塚田富治|2001|p=65-66,116-117}}{{sfn|石井栄一|2016|p=71-78}}。
 
[[1622年]]には[[ホワイトホール宮殿]]の拡張を実施し、[[イニゴ・ジョーンズ]]の設計による[[バンケティング・ハウス]]を完成させた。
== 系図 ==
{{See also|ステュアート朝|テューダー朝|ハノーヴァー朝}}
 
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{{familytree | | | | | | | | | | | | | AXS | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |AXS=アレグザンダー・ステュアート<br>王室執事長 }}
{{familytree | | | | | | | | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{familytree | | | | | | |MRG |y|J5S | |MGD |y|M4L | |JNA | | | |JMD | |M1E | |EL1 | |E6E | | |:| |J5S=[[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]<br>(5)|MRG=[[メアリ・オブ・ギーズ|メアリー・オブ・ギーズ]]|MGD=[[マーガレット・ダグラス]]|JMD=[[ジェイムズ・ダグラス (第4代モートン伯)|ジェームズ・ダグラス]]<br>モートン伯|M4L=[[マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯)|マシュー・ステュアート]]<br>レノックス伯|JNA=ジョン・ステュアート<br>オウビーニュイ卿|M1E=[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]<br><5>|EL1=[[エリザベス1世]]<br><6>|E6E=[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]<br><3> }}
{{familytree | |,|-|-|-|-|-|-|-|#|'| | |,|-|-|-|^|-|.| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |:| | }}
{{familytree |JSM | |FR2 |~|M1S |y|HSD | | | |CSL | |ESS | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |JNG |M1S=[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]<br>(6)|HSD=[[ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)|ヘンリー・ステュアート]]<br>ダーンリー卿|JSM=[[ジェームズ・ステュアート (初代マリ伯)|ジェームズ・ステュアート]]<br>マリ伯|CSL=[[チャールズ・ステュアート (初代レノックス伯)|チャールズ・ステュアート]]<br>レノックス伯|ESS=[[エズメ・ステュワート (初代レノックス公)|エズメ・ステュアート]]<br>レノックス公|FR2=[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]<br>フランス王|JNG=[[ジェーン・グレイ]]<br><4> }}
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{{familytree | | | | | | | | | | |J1E |y|AND | |ABS | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |J1E='''ジェームズ6世/1世'''<br>(7)<7>|AND=[[アン・オブ・デンマーク]]|ABS=[[アラベラ・ステュアート]]|boxstyle_J1E=background-color: #aff; }}
 
( )はスコットランド王/女王、<>はイングランド王/女王、[ ]はグレートブリテン王/女王の即位順
{{chart/end}}
{{chart bottom}}
 
== 人物・逸話 ==
* 幼い頃、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の玉座に座っていた際、屋根に穴を発見し「この議会には穴がある」と言ったところ、直後に重臣の一人が暗殺され、予言者との評判を得た。
* 「ブリテンの[[ソロモン]]王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、父親がダーンリーではなく母の秘書の{{仮リンク|デイヴィッド・リッチオ|en|David Rizzio}}だろう(デイヴィッド=ソロモンの父[[ダビデ]]のこと)という悪口でもあった。この発言者はフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]と言われている。また、「最も賢明で愚かな王」という発言もアンリ4世、あるいは彼の側近であるシュリー公{{仮リンク|マクシミリアン・ド・ベテュヌ (シュリー公)|en|Maximilien de Béthune, Duke of Sully|label=マクシミリアン・ド・ベテュヌ}}の物とされる{{sfn|森護|1988|p=303}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=230}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=2}}。
* 男色の愛人をしばしば重用、スコットランド王時代ではレノックス公、イングランド王時代ではブリストル伯[[ジョン・ディグビー (初代ブリストル伯爵)|ジョン・ディグビー]]、サマセット伯、バッキンガム公が愛人に挙げられる。彼等の存在は深刻なトラブルを招き、レノックス公の場合はリヴァンの襲撃、バッキンガム公は宮廷や議会の派閥抗争、サマセット伯に至っては殺人事件を引き起こしている(ブリストル伯のみ特に問題を起こしてはいない){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=298}}{{sfn|今井宏|1990|p=163,169-170}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=415,547}}{{sfn|櫻井正一郎|2008|p=20,88}}。
* 『バシリコン・ドーロン』で君主の振る舞いが人々の判断を左右させることを指摘、中庸を主とした質素な食事、テーブルマナーの礼儀正しさ、服装にも気を使うことを忠告している。反面、ジェームズ1世自身の振る舞いはそうした助言とは程遠い物で、礼儀作法が無い野蛮な言動を同時代人に記録されている。しかし人々が優雅な振る舞いに惑わされること、礼儀を人々の意識に植え付けることが秩序維持に役立つことを熟知しており、『バシリコン・ドーロン』は後世において参考にされるほど政治において重要な作品になっていった。また、服装がだらしなく、男色にふけり派手な宮廷生活に汚職とスキャンダルの噂が絶えないにも関わらず、意見を率直に語り家臣には親しみやすく信頼されていた(対するチャールズ1世は父と全く違う性格で、妻子を大切にする家庭人で、質素な宮廷生活を送り、汚職を厳しく取り締まり、寡黙で近寄りがたい人間だった){{sfn|小林麻衣子|2014|p=190-198}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=7,11}}。
* 当代随一の知識人フランシス・ベーコンをイングランド王即位直後から目にかけ、ナイト叙爵をきっかけに翌1604年の特命の学識顧問官抜擢、1607年の合同論争で注目して法務次官に任命した。以後も法務長官、枢密顧問官、国璽尚書、最終的に大法官へとまで昇進させ、爵位もヴェルラム男まで与えた。ベーコンも国王の側近として忠実に働きしばしば議会との協調を呼びかけ、コークらコモ法律家と対立して国王大権擁護、法改革など助言と提案を重ね、1620年に著作『[[ノヴム・オバンズガヌム]]』を国王へ贈り、1621年に子爵を与えに叙され時は国王へ感謝の言葉を述べている。ただし1621年議会でジェームズ1世はバッキンガム公を守るため、庶民院に弾劾されたベーコンをスケープゴートとして見放したため、完全に信頼していたとは言い難い(それでも弾劾されロンドン塔へ監禁されたベーコンを短期間で釈放させ、罰金も分割払いで済ませるなど失脚後のベーコンに便宜を図っている){{sfn|木村俊道|2003|p=254-255}}{{sfn|大野真弓|1975|p=122}}{{sfn|今井宏|1990|p=166}}{{sfn|塚田富治|1996|p=92-93,147-148,159-166,185-187}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=48-49}}{{sfn|石井栄一|2016|p=78,81}}。
* 1611年に[[オックスフォード大学]]{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|en|St John's College, Oxford|label=セント・ジョンズ・カレッジ}}学寮長の選挙が行われた際、{{仮リンク|オックスフォード大学学長|en|List of Chancellors of the University of Oxford|label=学長}}のエレズミア男爵[[トマス・エジャートン (初代ブラックリー子爵)|トマス・エジャートン]]から候補者の[[ウィリアム・ロード]]をカルヴァン派が訴えているという話を伝えられたが、選挙実施を承認した結果ロードが当選した。それからは大学改革に邁進するロードを後押ししたり、猟官運動に励む彼を引き立て出世させたりしたが、内心はロードの急進的思想([[高教会派]])を懸念していたという。ロードはジェームズ1世からはあまり信頼されなかったがバッキンガム公の後援を得て、次の王チャールズ1世の下で更に出世することになる{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=410}}{{sfn|塚田富治|2001|p=88-92}}。
* 1601年[[4月15日]]にスコーン・ロッジの[[フリーメイソン]]に加入している<ref name="Grand Lodge">{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/james_vi/james_vi.html |title= James VI of Scotland |accessdate= 2014-9-25 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。
* 1613年にジョン・セーリスが船長を務める[[クローブ号]]がジェームズ1世からの書簡と贈呈品をもって日本の[[長崎市|長崎]]、ついで平戸に到着した。当時、将軍職を退いて[[駿府城]]にいた徳川家康には[[望遠鏡]](アジアに望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、[[江戸]]にいる将軍徳川秀忠には金のカップとカバーとイングランド製の布地が贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風が託された。またセーリスは家康の顧問を務めていた英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力を得て、家康から朱印状(貿易許可証)を得て平戸にイギリス商館を開設している。1613年にクローブ号は帰国の途に就き、金屏風と鎧はジェームズ1世に届けられた。これをきっかけにジェームズ1世はアジアに関心を持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる<ref>[http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf 2013 年は日英交流 400 周年 ~JAPAN400 のご紹介~]</ref>。
* [[岩井淳 (歴史学者)|岩井淳]]『ピューリタン革命の世界史 <small>―国際関係のなかの千年王国論―</small>』ミネルヴァ書房、2015年。
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(下) <small>清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで</small>』中央公論新社(中公新書)、2015年。
* [[石井栄一]]『ベーコン <small>人と思想43</small>』[[清水書院]]、1977年(新装版2016年)。
 
== 関連項目 ==