「細川真之」の版間の差分

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| 藩 =
| 氏族 = [[細川氏#阿波守護家(讃州家)|細川阿波守護家]]
| 父母 = 父:[[細川持隆]]、母:[[ #母・小少将|小少将]]([[岡本牧西]]の娘)
| 兄弟 = 異父弟:[[三好長治]]、[[十河存保]]、<br>[[長宗我部右近大夫]]?
| 妻 =
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ところが、天正10年([[1582年]])6月に存保の後ろ盾であった織田信長が[[本能寺の変]]で横死すると、同年8月に元親は阿波国へ侵攻。十河存保は敗れ、阿波統治の本拠である勝瑞城を失い、讃岐虎丸城に撤退を余儀なくされた([[中富川の戦い]])。
 
天正10年(1582年)10月8日、真之は死去した。享年45。『三好記』によると、同年10月に十河存保は再び阿波国へ侵攻し、江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進ら数百名の軍勢を遣わして真之の[[茅ヶ岡城]]を攻めさせ、敗れた真之は八幡原にて自害し、阿波細川家は滅亡したという。真之の死去は中富川の戦いの敗北により十河存保が讃岐国へ撤退後の日付であること、先の敗戦で回復困難な痛手を負った十河軍が阿波に再侵攻し茅ヶ岡城を攻めたという経緯には疑問が呈されており、しかも天正10年10月には十河・長宗我部軍の間で[[十河城]]の籠城戦が行われていた([[十河城#第一次十河城の戦い|第一次十河城の戦い]])。また、襲撃した江村達を「山林の逆徒」と記していることからそれまで真之に従っていた阿波の国人であったとする説もあり、長宗我部元親による旧勢力の粛清も指摘されている<ref>小笠原成助や[[新開実綱]]といった有力者はこの時期に元親により謀殺されている。</ref>。
 
== 系譜 ==
*父:[[細川持隆]](1516/1497-1553)
*母:小少将
*妻:不詳
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== 母・小少将 ==
真之の母・小少将は[[岡本牧西]]の娘で、美女であったといわれる。[[細川持隆]]の死後、持隆を滅ぼした[[三好実休]]の妻となり、[[三好長治]]・[[十河存保]]を産み、実休の死後は三好氏の重臣である[[篠原自遁]]([[篠原長房]]の弟)の妻となった。さらにその死後、[[長宗我部元親]]の側室となり、[[長宗我部右近大夫]]を産んだという<ref>ただし、真之とは生年が50年近くも離れており、両者の母とされる小少将は同一人物でない可能性が高い。</ref>。それも政略結婚ではなく、自身の判断で世を渡り歩いた烈女であったといわれている。
 
== 脚注 ==