「アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
出典のない記述を削除
29行目:
 
==生涯==
[[フルエーラ1世]]と王妃ムニアの子として[[オビエド]]で生まれた。父の死後、アルフォンソは[[シロ (アストゥリアス王)|シロ]]王の妃で、叔母にあたるアドシンダの庇護を受けていたが、言い伝えではガリシアの[[サモス (スペイン)|サモス]]修道院で育ったとされる。シロ王が死ぬと、アドシンダ王妃と宮廷の高級貴族らの支持を受けて王に選ばれたが、い反対派の後押しを受けた叔父の[[マウレガート]]に王座を奪われ、[[アラバ県|アラバ]]の母方の親戚を頼って逃れた。
 
ブルビアの戦いで[[ベルムード1世]]が敗戦すると即座に退位し、アルフォンソはアストゥリアスに帰還し、791年9月に即位した。
 
[[カール大帝]]と相互に交流があったことが知られる。そこで何が行われたは不明だが、796年、797年、798年の3度、[[ガラエキア]]の代表団が[[フランク王国|フランク]]宮廷に送られた証拠があるからである。一説では、アストゥリアス東部へのイスラム教徒の攻撃から王国の統一性を維持しようとしたと考えられている。さらには、カール大帝が積極的に戦っている[[養子的キリスト論]]者との関係があったと信じられている。
 
彼は798年にコルドバの太守支配下の[[リスボン]]を荒らし、825年には[[ナロン]]とアンセオでイスラム教徒軍を破った。この勝利のおかげで、[[ガリシア]]、[[レオン王国|レオン]]、[[カスティーリャ]]で政治的再編が進んだ。
43行目:
セバスティアネンセ年代記では842年に、「52年間、質素で汚れなく、敬虔にして見事に王国を治め」アルフォンソが死んだことを記している。
 
伝説では、アルフォンソ王時代の814年に使徒サンティアゴの墓がコンポステーラで発見されたとされている。この地がキリスト教における重要な[[巡礼地]]の1つとなったのは事実である。
 
死後、アルフォンソ2世はオビエド大聖堂王室霊廟に埋葬された。