「不動院 (山武市)」の版間の差分
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標高30mの石塚山(石塚の森)の中腹の岩石上に本堂があり、[[入母屋造]]瓦葺き、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらした懸崖造り(朱塗り)で、石積みの基壇の上に本堂内陣まで貫通している通し柱2本を含め26本の柱によって支えられている。
[[天平]]3年([[731年]])[[行基]]が東国巡錫の折、[[不動明王]]の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後[[平安時代]]の初め[[空海|弘法大師(空海)]]が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。本堂には、不動明王と「こんがら」「せいたか」の二童子が安置され、古来より浪切不動院と呼ばれ海難防止に寄与してきた。現在は海岸が後退したため海上からは見えないが、遭難しそうになった船が常夜灯の灯りによって救われたという逸話も残されている。
[[明治維新]]後その役目を終え、[[文化遺産]]として現存している。また、本寺の円頓寺は[[大同 (日本)|大同]]4年([[809年]])に[[橘諸兄]]の末孫日和大膳太夫景吉が建立したとされる古刹であるが、一旦廃絶し[[建治]]3年([[1277年]])に再興され、[[天和 (日本)|天和]]年間([[1681年]]-[[1684年]])には[[荻生徂徠]]が[[朱子学]]の基本書ともいえる「四書大全」を学んだところと言われる。しかし明治維新で再び廃絶し現在は公民館になっている。
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