「商法講習所」の版間の差分

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[[画像:Hitotsubashi-Univ-Birthplace-2018041402.jpg|thumb|250px|商法講習所跡(東京都中央区銀座)]]
'''商法講習所'''(しょうほうこうしゅうじょ)は、[[1875年]](明治8年)、駐米日本代理公使を終えて帰国した[[森有礼]]が、[[渋沢栄一]]の協力を得て、銀座尾張町に創設した商業学校。現在の[[一橋大学]]の源流。
 
== 概要 ==
商法講習所は[[森有礼]]により私塾として設立された後、[[東京商科大学 (旧制)|東京商業学校]]([[1884年]])、[[東京商科大学 (旧制)|高等商業学校]]([[1887年]])、[[東京商科大学 (旧制)|東京高等商業学校]]([[1902年]])、[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]([[1920年]])、[[東京商科大学 (旧制)|東京産業大学]]([[1944年]]) と改称・改編を繰り返し、[[1949年]]に現在の[[一橋大学]]が発足した。したがって商法講習所は同大学の起源とされ、森有礼は同大学の建学の祖とされる。

また、商法講習所の設立趣意書「商学校ヲ建ルノ主意」創設に協力した[[福澤諭吉]]が執筆している<ref>国立公文書館所蔵内閣文庫187-0072。</ref>。[[東京府]]移管後は[[矢野二郎]]が所長として森から経営を引き継ぎ、その後の発展の基礎を築いた。
 
== 沿革 ==
[[画像:CommercialCollege-M9-M20.png|thumb|250px|商法講習所から高等商業学校までの制度変遷略図]]
駐米代理公使だった森有礼は諸外国と処するには商業が欠かせないと感じ、商業を専門に教える学校の設立を計画した。[[岩倉具視]]から了解を得たものの、学校建設の資金のためりず東京会議所の会頭・[[渋沢栄一]]に援助を願い出た<ref name=okubo>[http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/2746/biography-okubo-04.html 帰国、そしてクララ・ホイットニーとの出会い]植物学者 大久保三郎の生涯</ref>。校長には駐米中に交流のあった商業学校校長の[[ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー]]を就任させる予定でいたが、渋沢が難色を示したため、1875年(明治8年)8月のホイットニーの来日に間に合わず、やむなく官立の商業学校設立を諦め、翌9月に銀座尾張町に私設の商法講習所を開設し授業を始めた<ref name=okubo/>。ホイットニーとは5年間、年給2500円(日本人教師の[[高木貞作]]の5倍以上)で契約した<ref name=okubo/>。
 
設立当初は[[お雇い外国人]]教師[[ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー]]により、英語の教本を用いて、英語で授業が行われた。
 
記録に残る最初の[[修業年限]]は 1年半(18ヶ月)で、入学後の 6ヶ月間は英語の教育に充当されていた。修業年限はその後 2年([[1876年]]10月以降)、5年([[1881年]]4月以降)と延長され、教育令のもとでの商業専門学校を自称した。
 
設立当初は[[お雇い外国人]]教師[[ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー]]により、英語の教本を用いて、英語で授業が行われた。記録に残る最初の[[修業年限]]は 1年半(18ヶ月)で、入学後の 6ヶ月間は英語の教育に充当されていた。修業年限はその後 2年([[1876年]]10月以降)、5年([[1881年]]4月以降)と延長され、教育令のもとでの商業専門学校を自称した。後発の商業教育機関が日本式の教育を行うようになってからも、商法講習所は洋式教育を続けた(5年制になってからは、最初の3年間で内国商業科目と英語とを教え、残り2年間で英語により外国商業を教えた)。英語のほかには、模擬商業実践が特徴的であった。これは校内に模擬店舗・銀行・郵便局などを設け、模擬貨幣を使用して商取引の実演を行う授業であり、後発の商業諸校もこれに倣った。
 
校舎は当初、銀座尾張町(現・東京都中央区銀座6丁目)にあった鯛味噌屋の2階を使用したが、1876年8月、新築の銀座木挽町校舎に移転した。この校舎は森の自邸内にあったが、森が清国駐在公使を命じられた際に寄付され<ref name=okubo/>、後身の東京商業学校に引き継がれ、神田一ツ橋に移転する [[1885年]]9月まで使用された。
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*[[高等商業学校]]
*[[神戸商業講習所]] - [[大阪商業講習所]]
*[[簿記講習所]]
 
== 外部リンク ==