「東峰十字路事件」の版間の差分

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以下は、当時の報道など。階級は[[二階級特進]]後のもの。
 
火炎瓶を投げつけられた隊員たちは火だるまになってのた打ち回った。火傷を負って倒れ無抵抗となった隊員それぞれに「殺せ」「ヤッちまえ」などと叫ぶ複数人が寄ってたかり、隊員の衣服をはぎ装備を外したうえで(事件後、一部のマスコミは「襲撃を受けた福島小隊員は、装備を外し、一部には靴まで脱いで休憩状態のものもいた」とあたかも部隊が現地で油断をしていたかのように報じた)[[竹槍]]や[[釘]]を打ち込んだ角材などで滅多打ちにした{{sfn|佐藤文生|1978|pp=100&ndash;124}}<ref name="yomiuri19710916-e10" />{{sfn|飯高春吉|1976|p=189}}<!-- 1971年9月17日付読売新聞からの転載 -->。またその場から撤退しようとした隊員らも、[[土地鑑]]がない上に付近にあるのは反対派の農家ばかりで助けを求められる民家もなく、ゲリラに取り囲まれると次々と脇の林や茂みに引きずり込まれてやはり滅多打ちにされ、[[土下座]]を強いられたり裸にされて[[手錠]]で木の幹に繋がれるなどした{{efn|付近の農家に逃げ込んだ堀田大隊の隊員2人は、同家にいた学生らに物陰に連れ込まれ、農用フォークで胸などを突かれたりスコップで殴られたうえ、防護服を剥ぎ取って縛り上げられて更にリンチを加えられている{{sfn|大坪景章|1978|pp=145&ndash;146}}<ref>{{Cite news |和書 |title=成田の反対同盟員宅から血染めのシャツ 警官暴行容疑で逮捕 |newspaper=朝日新聞 夕刊 |date=1971-09-25 |page=11}}</ref>。}}<ref name="yomiuri19710917-m">{{Cite news |和書 |title= |newspaper=読売新聞 朝刊 |date=1971-09-17 |page=}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=戸村一作 |title=わが三里塚―風と炎の記録 |publisher=田原書店 |date=1980 |id={{全国書誌番号|80018622}} |asin=B000J8A3R8 |page=75}}</ref>。
 
福島警視も火炎瓶を受けて火だるまになり、炎を消そうと苦悶しながら転げまわっていたところをゲリラ集団が襲いかかった。無抵抗の福島警視はヘルメットを剥ぎ取られ、他の隊員から奪った手錠をかけられた上、ゲバルト棒や鉄パイプで滅多打ちにされて死亡した。柏村警部と森井警部補も倒れたまま同様に滅多打ちにされ死亡した<ref name="asahi19710916-e">{{Cite news |和書 |title= |newspaper=朝日新聞 夕刊 |date=1971-09-16 |page=}}</ref>。これらの暴行を行った者達の積年の恨みを晴らさんとするかのような容赦ない仕打ちは周囲にいた仲間の反対派からも制止が入るほど{{sfn|朝日新聞成田支局|1998|p=54}}の激しさであり、事件を目撃した反対派[[シンパ]]であるとする地元住民も後日マスコミの[[インタビュー]]でやりすぎだったと語った。被害にあった警官があとで証言できないように、ゲリラ部隊は意識的に顎や顔を集中攻撃し、さらには倒れた隊員に[[濃硫酸]]をかけ、火炎瓶で放火したとの警察側の主張もある{{sfn|大坪景章|1978|p=134}}。また[[成田赤十字病院]]の院長は、かなり固いもので殴られているため、制服の下に防弾チョッキをつけていても胸を骨折した者がいた、と証言している{{sfn|飯高春吉|1976|p=191}}。