「ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)」の版間の差分

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|称号・勲章 = 初代[[バッキンガム公|バッキンガム公爵]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲爵士]](KG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)
|親族(政治家) =
|配偶者 = {{仮リンク|キャサリン・ヴィリアーズ (第19代ド・ルース女男爵)|label=キャサリン|en|Katherine Villiers, Duchess of Buckingham}}
|サイン =
|ウェブサイト =
海軍卿には[[アルマダの海戦]]で名を馳せた初代[[ノッティンガム伯爵]][[チャールズ・ハワード (初代ノッティンガム伯爵)|チャールズ・ハワード]]がいたが、老齢の彼には進行していた海軍の腐敗を止められず、世論の不満とそれによる枢密院の海軍調査が行われていた。海軍卿の役得収入を狙っていたヴィリアーズはそれに乗じ、1618年に枢密院が設置した査問委員会の海軍改革を口実にしてジェームズ1世を説得させ、翌1619年にノッティンガム伯を排除して自ら海軍卿に就任した。ヴィリアーズ本人は海軍に無関心だったが、査問委員会は海軍の腐敗と再建策を提言し将来の発展に向けた指標を立て、彼の死後海軍は組織改編を経て発展していった<ref>[[#小林(2007)|小林(2007)]] p.155-160</ref>。
 
このヴィリアーズの短期間での急速な昇進の背景には君寵だけでなく、[[カンタベリー大主教]]{{仮リンク|ジョージ・アボット (カンタベリー大主教)|label=ジョージ・アボット|en|George Abbot (bishop)}}、{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}{{仮リンク|ラルフ・ウィンウッド|en|Ralph Winwood}}、{{仮リンク|侍従長 (イギリス)|label=侍従長|en|Lord Chamberlain}}第3代[[ペンブルック伯]][[ウィリアム・ハーバート (第3代ペンブルック伯爵)|ウィリアム・ハーバート]]ら宮中内の改革派([[プロテスタント]]強硬派)による後押しがあった。{{仮リンク|大蔵卿 (イギリス)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}初代[[ソールズベリー伯爵|ソールズベリー伯]][[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]が死去した後、宮廷は親[[カトリック教会|カトリック]]・親[[スペイン]]の[[ハワード家]]が取り仕切っており、国王[[寵臣]]の初代[[サマセット公|サマセット伯]][[ロバート・カー (初代サマセット伯)|ロバート・カー]]もハワード派だったため、プロテスタント派はこれを警戒してヴィリアーズをサマセット伯に代わる国王寵臣に仕立て上げたがっていた{{sfn|塚田富治|2001|p=54}}。また[[1610年]]にソールズベリー伯が提案した財政改革案「[[大契約]]」が議会から否決されて以降、王庫の財政は危機的状況に瀕していた。1614年に議会が再招集されたが、国王秘書長官ウィンウッドが議会対策に不慣れなうえ、政府内でも財政改革案について意見が分裂していたため、政府と議会の和解が難しい情勢になっていた。そうした中でジェームズ1世が、議会からの財政援助をあきらめて[[持参金]]だけを目当てにカトリックのスペイン王室との婚姻に動く恐れがあり、ヴィリアーズにはそれを阻止する役割も期待されていた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.158-159/163</ref>。
 
ヴィリアーズはその期待に十分にこたえ、国王を大蔵卿初代[[サフォーク伯]][[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]ら親スペイン派から引き離したばかりか、1618年にはサフォーク伯を失脚にまで追い込んでいる(サマセット伯も君寵をヴィリアーズに奪われ、殺人容疑で逮捕され失脚)<ref name="今井(1990)163"></ref>{{sfn|塚田富治|2001|p=54}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=124/547}}。またこの時期にジェームズ1世の勧めで[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]から政治指南を仰ぎ、イングランドの政治・宗教・経済・外交など多岐にわたる分析・対策を教えてもらったが、バッキンガム侯爵にまで叙せられたヴィリアーズは王の寵愛を当てにして政治を行う方を選んだため、ベーコンのイングランド指南を十分に学べなかった。このため身内贔屓による派閥形成に走り、彼に推挙された人々が宮廷や政府の要職を独占したため有力貴族の反感を買い、国政に関与出来なくなった地方の有力者は議会でバッキンガム侯ヴィリアーズが牛耳る中央政府と対決することになる。バッキンガム侯が推挙した人物には[[大法官]]に出世したベーコンと大蔵卿{{仮リンク|ミドルセックス伯爵|en|Earl of Middlesex}}{{仮リンク|ライオネル・クランフィールド (初代ミドルセックス伯爵)|label=ライオネル・クランフィールド|en|Lionel Cranfield, 1st Earl of Middlesex}}など優秀な人材もいたが、彼らは後にバッキンガム侯に見捨てられる羽目になる<ref>[[#塚田(2001)|塚田(2001)]] p.56-66/68</ref>。
 
[[1621年]]1月に召集された議会で独占権に対する批判が上がると、身内に独占権を与え議会の批判対象になっていたバッキンガム侯はベーコンから独占権廃止で支持を獲得することを助言されたが聞き流し、逆にベーコンをスケープゴートにし収賄罪で罷免に追い込んだ。ジェームズ1世もバッキンガム侯を守るためベーコン失脚に一役買った<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.163-164/166</ref><ref>[[#塚田(2001)|塚田(2001)]] p.65-66</ref>。
== 家族 ==
[[File:George_Villiers_Duke_of_Buckingham_and_Family_1628.jpg|250px|thumb|バッキンガム公と家族を描いた絵画([[ヘラルト・ファン・ホントホルスト]]画)]]
[[1620年]]に第6代[[ラトランド公爵|ラトランド伯爵]]{{仮リンク|フランシス・マナーズ (第6代ラトランド伯爵)|label=フランシス・マナーズ|en|Francis Manners, 6th Earl of Rutland}}の娘{{仮リンク|キャサリン・ヴィリアーズ (第19代ド・ルース女男爵)|label=キャサリン・マナーズ|en|Katherine Villiers, Duchess of Buckingham}}と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲けた<ref name="thepeerage.com" />。
 
*第1子(長女){{仮リンク|メアリー・ステュアート (リッチモンド公爵夫人)|label=メアリー|en|Mary Stewart, Duchess of Richmond}}(1622年 - 1685年):はじめハーバート卿チャールズ・ハーバート(第4代ペンブルック伯[[フィリップ・ハーバート (第4代ペンブルック伯爵)|フィリップ・ハーバート]]の長男)と結婚、ついで第4代[[レノックス公爵]]兼初代[[リッチモンド公爵]][[ジェイムズ・ステュワート (初代リッチモンド公爵)|ジェイムズ・ステュワート]]と再婚。