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'''鳥羽天皇'''(とばてんのう、旧字体:'''鳥羽'''、[[1103年]][[2月24日]]〈[[康和]]5年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]〉- [[1156年]][[7月20日]]〈[[保元]]元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]〉{{要出典|date=2021-02}})は[[日本]]の第74代[[天皇]](在位: [[1107年]][[8月9日]]〈[[嘉承]]2年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]〉- [[1123年]][[2月25日]]〈[[保安 (元号)|保安]]4年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]〉)。[[諱]]は'''宗仁'''(むねひと)。
 
[[堀河天皇]]の皇子。母は贈[[皇太后]]・[[藤原苡子]]。子の[[崇徳天皇]]・[[近衛天皇]]・[[後白河天皇]]の3代28年に渡り院政を敷いた。
 
== 来歴生涯 ==
生後間もなく母・苡子が没し、祖父の[[白河天皇|白河法皇]]の下に引き取られて養育された。誕生から7か月で[[立太子]]され、父・[[堀河天皇]]の死後、5歳で即位する。幼いころの大病がもとで、病弱な体となる。
 
幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の[[藤原忠実]]は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。[[永久 (元号)|永久]]5年([[1117年]])、白河法皇の養女である[[藤原璋子]](待賢門院)が入内、翌年には[[中宮]]となり5男2女を儲ける。[[保安 (元号)|保安]]4年(1123年)1月23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽天皇の治世において白河[[院政]]が本格化した。
 
[[永久 (元号)|永久]]5年([[1117年]])、白河法皇の養女である[[藤原璋子]](待賢門院)が入内、翌年には[[中宮]]となり5男2女を儲ける。
白河法皇崩御の後、[[大治 (日本)|大治]]4年(1129年)より[[院政]]を敷く。白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を[[天承]]元年(1131年)に呼び戻し、娘の[[藤原泰子|泰子]](高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。また、白河法皇の側近であった[[藤原長実]]・[[藤原家保|家保]]兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める<ref>長実は美福門院の実父、家保は鳥羽上皇の側近である[[藤原家成]]の実父であるが、美福門院・藤原家成は鳥羽上皇の寵愛を背景に父や兄弟に代わってその権力や財産を独占した(佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5)。</ref><ref>ただし、白河院晩年の院司の大半が鳥羽院や待賢門院の院司を兼ねているため人的構成は基本的には引き継がれ、三院が揃って三条烏丸御所に同居するなど、鳥羽院政初期の院司の交代を白河院色の排除を意図したものとは言えないとする指摘もある(佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02946-9 P142-144)。</ref>。有力な[[院司]]として、[[藤原顕頼]]や[[藤原家成]]がいる。また[[伊勢平氏]]の[[平忠盛]]の[[内昇殿]]をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、[[長承]]2年(1133年)頃より[[藤原得子]](美福門院)を寵愛した。永治元年(1141年)、23歳であった崇徳天皇を[[譲位]]させ
、得子所生の第九皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。[[康治]]元年(1142年)に[[東大寺]][[戒壇|戒壇院]]で受戒し法皇となる。
 
[[保安 (元号)|保安]]4年(1123年)1月23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽天皇の治世において白河[[院政]]が本格化した。
久寿2年(1155年)に近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われる。間もなく病に力を奪われ力尽きるが、この後白河天皇即位が[[保元の乱]]が勃発する原因となった。
 
白河法皇崩御の後、[[大治 (日本)|大治]]4年(1129年)より[[院政]]を敷く。白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を[[天承]]元年(1131年)に呼び戻し、娘の[[藤原泰子|泰子]](高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。また、白河法皇の側近であった[[藤原長実]]・[[藤原家保|家保]]兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める<ref>長実は美福門院の実父、家保は鳥羽上皇の側近である[[藤原家成]]の実父であるが、美福門院・藤原家成は鳥羽上皇の寵愛を背景に父や兄弟に代わってその権力や財産を独占した(佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5)。</ref><ref>ただし、白河院晩年の院司の大半が鳥羽院や待賢門院の院司を兼ねているため人的構成は基本的には引き継がれ、三院が揃って三条烏丸御所に同居するなど、鳥羽院政初期の院司の交代を白河院色の排除を意図したものとは言えないとする指摘もある(佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02946-9 P142-144)。</ref>。有力な[[院司]]として、[[藤原顕頼]]や[[藤原家成]]がいる。また[[伊勢平氏]]の[[平忠盛]]の[[内昇殿]]をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、[[長承]]2年(1133年)頃より[[藤原得子]](美福門院)を寵愛した。永治元年(1141年)、23歳であった崇徳天皇を[[譲位]]させ
 
永治元年(1141年)、23歳であった崇徳天皇を[[譲位]]させ、得子所生の第九皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。
 
、得子所生の第九皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。[[康治]]元年(1142年)[[東大寺]][[戒壇|戒壇院]]で受戒し法皇となる。
 
久寿2年(1155年)近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われる。間もなく病に力を奪われ力尽きるが、この後白河天皇即位が[[保元の乱]]が勃発する原因となった。
 
==人物==
父・堀河天皇と並ぶ[[笛]]の名人として知られ、譲位後に崇徳天皇が[[朝覲行幸]]に訪れた際に自ら笛を演奏して歓待している(朝覲行幸では子である天皇が父である院に対する孝養の一環として楽器を演奏するのが通例であった)。また、[[催馬楽]]や[[朗詠]]にも優れ、天永3年([[1112年]])の白河法皇の60歳の御賀の際には自ら催馬楽を披露している<ref>豊永聡美「平安時代における天皇と音楽」(初出:『東京音楽大学研究紀要』25号(2004年)/改題所収:豊永「鎌倉期以前の天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P30-31)</ref>。