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[[1953年]]、[[第26回衆議院議員総選挙]]に[[愛媛県第3区 (中選挙区)|旧愛媛3区]]から[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]公認で立候補し初当選。1955年の[[第27回衆議院議員総選挙]]でも再選。[[離島整備振興法]]の成立や[[細木運河]]、[[船越運河]]の建設に尽力。[[郵政大臣]]だった[[田中角栄]]に直訴して、不可能と言われた[[竹ヶ島 (宇和島市津島町)|竹ヶ島]]の電話架設を実現した{{要出典|date=2020年8月}}。
 
[[1958年]]の[[第28回衆議院議員総選挙]]では、最下位当選の[[今松治郎]](49,916票)に僅か304票差(49,612票)で落選。この時[[テレビ]]の[[選挙速報]]で[[当選確実]]を打たれながらて陣営で当選を祝ったのの後になって落選してしが決り、俗に「バンザイ落選」と言われた。3位当選の今松治郎は49,916票。次点の山本は49,612票。その差わずか304票であった。
 
その後[[19721967年]]2月25日に[[宇和島市長]]選挙に立候補し3期目を目指す[[中川千代治]]を破り当選。再選を目指した[[1971年]]市長選ではの中川に敗れたものの1年足らずで中川市長が急逝これに伴う市長選で返り咲いて以後3期務める。この間、宇和島市庁舎の建設、宇和島市立病院の財政立て直し、20日雨が降らないと断水と言われた水問題の解消([[須賀川 (愛媛県)|須賀川ダム]]の建設、南予用水事業)など功績も多いが、別当地区ゴミ焼却場を巡る住民との裁判では控訴審で実質敗訴。
[[1967年]]、[[宇和島市長]]選挙に立候補し、3期目をめざす[[中川千代治]]を破り当選。
 
[[1980年]]4月13日に行われた市長選で元県議会議長の中畑義生を破り4選したが、この市長選で双方が[[選挙違反]]したことが発覚。同年5月16日には山本は2(2月20日頃に後援会長に300万円を渡した容疑)・中畑は3(3月25日頃に数人に数百万円を渡した容疑でそろ)が揃って逮捕された<ref>『中日新聞』1980年5月17日付朝刊、11版、23面、「宇和島市長を逮捕 市長選 数百万円の買収容疑」。</ref>。その後の捜査により、中畑が選対幹部らに渡した現金の合計は3,300万円にのぼっていたことがわかった(裁判では2,881万3千円のみが犯罪事実として認定された)。6月9日、山本は漁港海岸保全工事をめぐり市内の土建業者から1,000万円の寄付を受けた容疑で再逮捕された<ref>[[木村伊量]]「全容 無謀の構図 (84) 同期生 西と東で違反にメス」 『朝日新聞』1981年3月22日付朝刊、三河版西。</ref><ref>[https://daihanrei.com/l/%E6%9C%80%E9%AB%98%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B0%8F%E6%B3%95%E5%BB%B7%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%99%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%81%82%EF%BC%89%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%95%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA 最高裁判所第二小法廷 昭和59年(あ)1005号 判決 - 大判例]</ref>。[[1981年]]、辞職。同年6月2日、懲役2年の一審判決が下された<ref>『朝日新聞』1981年6月23日付朝刊、12版、18面、「岡崎落城一年(中) 外堀埋め 市の犯罪徐々に解明 相手方の有罪、次々確定」。</ref>。
[[1971年]]、前市長の中川に敗れる。
 
[[1972年]]2月25日、中川が急逝。これに伴う市長選で返り咲いて、以後3期務める。この間、宇和島市庁舎の建設、宇和島市立病院の財政立て直し、20日雨が降らないと断水と言われた水問題の解消([[須賀川 (愛媛県)|須賀川ダム]]の建設、南予用水事業)など功績も多いが、別当地区ゴミ焼却場を巡る住民との裁判では控訴審で実質敗訴。
 
[[1980年]]4月13日に行われた市長選で元県議会議長の中畑義生を破り4選。同年5月16日、山本は2月20日頃に後援会長に300万円を、中畑は3月25日頃に数人に数百万円を渡した容疑でそろって逮捕された<ref>『中日新聞』1980年5月17日付朝刊、11版、23面、「宇和島市長を逮捕 市長選 数百万円の買収容疑」。</ref>。その後の捜査により、中畑が選対幹部らに渡した現金の合計は3,300万円にのぼっていたことがわかった(裁判では2,881万3千円のみが犯罪事実として認定された)。6月9日、山本は漁港海岸保全工事をめぐり市内の土建業者から1,000万円の寄付を受けた容疑で再逮捕された<ref>[[木村伊量]]「全容 無謀の構図 (84) 同期生 西と東で違反にメス」 『朝日新聞』1981年3月22日付朝刊、三河版西。</ref><ref>[https://daihanrei.com/l/%E6%9C%80%E9%AB%98%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B0%8F%E6%B3%95%E5%BB%B7%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%99%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%81%82%EF%BC%89%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%95%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA 最高裁判所第二小法廷 昭和59年(あ)1005号 判決 - 大判例]</ref>。
 
[[1981年]]、辞職。同年6月2日、懲役2年の一審判決が下された<ref>『朝日新聞』1981年6月23日付朝刊、12版、18面、「岡崎落城一年(中) 外堀埋め 市の犯罪徐々に解明 相手方の有罪、次々確定」。</ref>。
 
[[1994年]]12月28日、地元の宇和島市で死去。{{没年齢|1905|4|10|1994|12|28}}。