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'''ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス'''('''Titus Flavius Domitianus''', [[51年]][[10月24日]] - [[96年]][[9月18日]])は、[[ローマ帝国]]の第11代[[ローマ皇帝|皇帝]]である。在位[[81年]]から[[96年]]。[[フラウィウス朝]]最後の皇帝であり、[[ウェスパシアヌス]]とその妻ドミティリアの次男、先代皇帝[[ティトゥス]]の弟にあたる。
 
== 治世 ==
[[81年]]9月、兄ティトゥスが重病に伏すと、速やかに行動し、兄が生存中に帝位を掌握した。そのためドミティアヌスが兄の死期を早めたとの噂がたった。
 
最初は穏健に始まったその治世は次第に暴虐となり、そのために死後、[[記録抹殺刑|記憶の抹消]](Damnatio Memoriae)に処せられた。[[ユダヤ人]]や[[キリスト教]]徒を迫害したことでも知られる。
 
[[スエトニウス]]の『[[ローマ皇帝伝]]』には、教養のある優雅な青年として描かれる。兄と異なり、父のユダヤ遠征には参加していない。父が皇帝に登極すると、次第にその行動は大胆さを増した。
 
[[70年]]に[[ドミティア・ロンギナ]]とルキウス・アエリウス・ラミアを強制的に離婚させ、ドミティアと結婚した。ドミティアはネロ配下の将軍であった[[グナエウス・ドミティウス・コルブロ]]の次女であった。この結婚は暴力的にはじまったものの、結果としては双方に利益をもたらした。しかしドミティアヌスは漁色家として知られ、たびたび愛人たちを引き連れていたという説もある。また若い頃には[[ネルウァ]](次のローマ皇帝)らの元老議員連と男色関係にあったという説もある。
 
彼は皇太子として神官などの栄誉職をたびたび受けたが、帝国の行政官職にはつかなかった。政治に関わらなかったため、ドミティアヌスを次期皇帝候補と見たものはいなかったが、兄ティトゥスが死ぬと野心をあらわにして帝位についた。
 
治世の末期は暴虐をもって伝えられる。[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員や[[エクィテス|騎士階級]]のものをたびたび告発しては死刑にした。貴族階級に公然と敵意を示し、元老院の決議をしばしば無効にした。
 
== 最期 ==
[[96年]]に暗殺された。この暗殺はステファヌス(姪ユリア・ドミティアの執事)を含む元老院議員らや元側近によって計画された。[[占星術]]によっておのれの死を予告されていたドミティアヌスは心休まず、暗殺を警戒したが、自邸内で暗殺された。ステファヌスは8度ドミティアヌスを突き刺したと伝えられる。遺体は粗末な扱いを受けたが、乳母により火葬にされ、姪の[[ユリア・フラウィア]]のものと混ぜ合わせられた。
 
後嗣なく、死後は元老院によってネルウァが皇帝に指名された。
 
== 子孫 ==
全体として信憑性には著しく疑問がある『ローマ皇帝群像』は270年から271年にかけてガリア帝国に対して反乱を起こしたドミティアヌス(ドミティアヌス2世とも)を、ドミティアヌスとその母フラウィア・ドミティラの子孫であることを示唆している。この意図は、反乱者ドミティアヌスが上院階級であったことを示唆することかもしれない。
 
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== 年表 ==
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[[ファイル:RomaPalatinoDomusAugustanaCortileInferiore.JPG|thumb|right|200px|ドムス・アウグスタ(ドミティアヌス宮殿の遺構)]]
 
== 功績と汚点 ==
皇帝としてのドミティアヌスの評価は極めて低い。それはドミティアヌスと敵対していた元老院階級の歴史家たち([[タキトゥス]]や[[スエトニウス]])が否定的な評価を下しているからである。またユダヤ人に対して敵対的な行動を取り、そのために[[ネロ]]に続くキリスト教の第2の迫害者となったと記憶されており、それも低い評価につながっている。[[81年]]に即位してのち、帝国の経済を破綻させ、景気の後退を招き、通貨[[デナリウス]]を下落させた。財政回復のため、増税したが、これによってさらに人気の低下を招いた。
彼は[[記録抹殺刑]]に処せられており、これにより後世にはタキトゥスやスエトニウスの否定的評価だけが残っている。
 
当時いまだネロ治世でのローマ大火と内乱のあとから完全に復興していなかったローマ市内に、芸術愛好家としてのおのれの好みを反映させ、人口の回復を図り、公共事業を多く起こした。ドミティアヌスの建築計画には[[ドミティアヌス競技場]]、{{仮リンク|ドミティアヌス劇場|en|Odeon of Domitian}}、[[パラティーノ|パラティヌス]]の宮殿、神殿、数多くの記念碑や彫像が含まれる。
 
[[85年]]には終身[[ケンソル]](監察官。財務官とも)の座についた。この職はローマ市民の模範たるべき職であり、ドミティアヌスにはふさわしくないとの評があった。81年に帝妃ドミティアが俳優パリスと浮気したという噂を聞き、怒ったドミティアヌスはパリスを処刑し、帝妃を流刑にした。姪(兄ティトゥスの娘)である[[ユリア・フラウィア]]の夫の死後、未亡人となったユリアに、彼女が肉親であったにもかかわらず、これに恋慕し、妊娠させるに至った。ユリア・フラウィアが流産のため死亡した後、流刑地から帝妃ドミティアを呼び戻したが、その後の結婚生活は形ばかりのものであった。
 
ドミティアヌスは芸術と競技に情熱を注ぎ、父ウェスパシアヌスが建設を始め、兄ティトゥスが奉献した[[コロッセオ|フラウィウス競技場(コロッセオ)]]を[[86年]]に完成させるとともに、[[ドミティアヌス競技場]]を新たに造った。また、[[古代オリンピック|オリンピア]]競技を模し、4年ごとに陸上競技や[[戦車競走]]などからなる競技大会を催した。[[剣闘士]]競技を愛好し、女性剣闘士や矮人剣闘士といった改革も行った。
 
ローマ人としての教育を受けたものの、軍人としては才能に恵まれなかった。[[ダキア戦争 (1世紀)|ダキア遠征]]や[[ブリタニア]]遠征を試みるが、これらの遠征は国内宣伝を主としたものであり、実効を伴わなかった。ダキア人相手の戦争では度々苦戦を強いられ、最終的にはダキアと講和条約を結んでいる。この講和条約は当時ダキア側に捕らえられていたローマ兵一人に対していくらかの身代金を払うと言った条項が加えられており、これを屈辱的だと感じたローマ市民には大変不評な講和条約であった。
 
[[ライン川]]防衛線と[[ドナウ川]]防衛線の間を繋げるゲルマニア防壁([[リーメス]]・ゲルマニクス)の建設を始めた。これはゲルマン人にとって格好の避難場所であった黒い森[[シュヴァルツヴァルト]]をも防壁内に取り込むなど、ローマの防衛に大きく寄与することになった。
 
== 逸話 ==
若い頃は美男で知られたが、後年になると父親譲りの禿に悩まされ、頭髪の手入れに関する本を著述している。
 
==系図==
{{フラウィウス朝系図}}
 
== 参考文献 ==
*[[スエトニウス]]『ローマ皇帝伝(下)』國原吉之助 訳
*クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』青柳正規 監修
<!--- 小説は参考文献にならないのでコメントアウト
*[[塩野七生]]『ローマ人の物語VIII 危機と克服』
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*島田誠『コロッセウムからよむローマ帝国』