「イベントコンパニオン」の版間の差分

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1964年東京オリンピックのコンパニオンを立項。名称の起源であるとしても、やはり主題が扱おうとする職業と大きく異なるのでは
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== 歴史 ==
[[1964年東京オリンピック]]の際、日本を訪れるVIPのアテンド(案内・接待や通訳など)や、メダルセレモニーの際のホステス役を務める女性スタッフが「'''[[1964年東京オリンピックのコンパニオン|コンパニオン]]'''」と名付けられた<ref name="hoshino"/><ref name="sankei-150505">{{cite web|url=https://www.sankei.com/column/news/150505/clm1505050009-n1.html|title=64年東京のいまを歩く(5)総理の娘は「疲労困パニオン」 良家の子女に訪れた疾風怒濤の日々|publisher=産経新聞|date=2015-5-5|accessdate=2021-3-19}}</ref>。これが、日本で「コンパニオン」という語が使われるようになった契機とされる<ref name="hoshino"/>。「貴婦人の接待役」を意味する companion ([[レディズ・コンパニオン]])から採られた名称で<ref name="hoshino"/>、「公募」を経て語学堪能でマナーに問題のない女性が採用され(結果としていわゆる「良家の子女」が多く採用され、選考の偏りも批判された<ref name="sankei-150505"/>)、破格の俸給で職務にあたった<ref name="hoshino"/><ref name="sankei-150505"/>(なお、オリンピック出場経験者を含む陸上競技関係者にも声がかけられてコンパニオンに就いたが、手当も含めボランティア的なものであったという<ref name="hoshino"/>)。
=== 1964年東京オリンピックの「コンパニオン」 ===
[[File:Gergely Kulcsár, Jānis Lūsis, Pauli Nevala 1964.jpg|thumb|表彰式では和服姿のコンパニオンがアシスタントを務めた<ref name="hoshino"/>。写真はやり投の表彰式。]]
'''コンパニオン'''という語が日本で使用されるようになったのは、[[1964年東京オリンピック]]が契機である<ref name="hoshino"/><ref name="sankei-150505">{{cite web|url=https://www.sankei.com/column/news/150505/clm1505050009-n1.html|title=64年東京のいまを歩く(5)総理の娘は「疲労困パニオン」 良家の子女に訪れた疾風怒濤の日々|publisher=産経新聞|date=2015-5-5|accessdate=2021-3-19}}</ref>。日本を訪れるVIPのアテンド(案内・接待や通訳など)や、メダルセレモニーの際のホステス役を務める女性が任命されることとなり、彼女たちが「コンパニオン」と名付られけた<ref name="hoshino"/>。「コンパニオン」の一人であった[[吉川綾子|星野綾子]](旧姓:吉川。[[1952年ヘルシンキオリンピック]]代表選手)の証言によれば、東京オリンピック組織委員会総務局国際部部長の[[北沢清]]が、辞書で[[レディズ・コンパニオン|「貴婦人の接待役」を意味する companion ]]を見つけて提案し、命名される彼女たちも賛同したことから採用されたという<ref name="hoshino"/>(産経新聞記事では東京都知事・IOC委員である[[東龍太郎]]の発案による命名とする<ref name="sankei-150505"/>)。東京オリンピックのコンパニオンは総勢は34人であった<ref name="hoshino"/>。
 
星野によれば、まず陸上競技関係者から選ぶということで関係者に声がかけられ、1963年9月に招集が行われた。星野自身もこの時に招集された一人で、[[土倉麻|田島麻]](旧姓:土倉。1932年ロサンゼルスオリンピック代表選手。[[田島直人]]夫人)とその娘の和子<ref name="hoshino"/>、[[安川第五郎]](東京オリンピック組織委員会会長)の孫娘、そのほか各都道府県の陸上競技連盟の会長の娘などが推薦されて来たという<ref name="hoshino"/>。その後、1964年6月に「公募」がかけられ<ref name="hoshino"/>、語学堪能でマナーや素養に問題のなく「才色兼備」な女性たちが、いわゆる「良家の子女」を中心に選ばれた<ref name="hoshino"/><ref name="sankei-150505"/>。池田紀子・祥子姉妹(総理大臣[[池田勇人]]の娘)<ref name="hoshino"/><ref name="sankei-150505"/>、[[長嶋亜希子|西村亜希子]](「コンパニオン」との対談を契機に[[長嶋茂雄]]夫人となる)<ref name="hoshino"/><ref name="sankei-150505"/>はこの公募での採用という。このほかコンパニオンには、磯村文子(NHK局員[[磯村尚徳]]夫人)<ref name="sankei-150505"/>、[[竹田恒和]]の姉2人(素子・[[渡辺紀子|紀子]])<ref name="sankei-150505"/>などが含まれた。
 
VIPの入国出迎えから帰国見送りまで担当するコンパニオン(池田紀子の例<ref name="sankei-150505"/>)と、国立競技場内で和服を着て案内に当たるコンパニオン(星野綾子の例<ref name="hoshino"/><ref name="nhk-171001">{{cite web|url=https://sports.nhk.or.jp/olympic/article/legacy/4-2/|title=“わたしの原点、国立競技場”(2)東京 新宿区 こころのレガシー 1964→2020 vol.4-2|publisher=NHK|date=2017-10-1|accessdate=2021-3-20}}</ref>)があり、VIPの買い物や観光にも同伴した前者には破格の俸給が出たものの、競技関係者が多く務めた後者は交通費・弁当代以外は無給のボランティアであったという<ref name="nhk-171001"/><ref name="hoshino"/>。
 
=== その後の「コンパニオン」 ===
'''イベントコンパニオン'''という仕事が一般に認知されたのは、[[高度経済成長期]]の末期である[[1970年]]に行われた[[日本万国博覧会|大阪万博]]だと言われている。この当時は現在と違い大規模なイベントや展示会も少ない上、初の[[万国博覧会]]ということで語学力や接客マナーなども求められたため、[[大学]]や[[短期大学|短大]]卒の良家の子女が多く従事していると伝えられた。