「丘浅次郎」の版間の差分

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== 人物 ==
[[遠江国]]掛塚(現・[[静岡県]][[磐田市]]掛塚)生まれ。父親が[[大阪造幣局]]勤務であったため、少年期は[[大阪市]]内で暮らす。[[大阪英語学校]]に入学し抜群の成績を修め、その後に[[旧制第一高等学校]]の前身である[[東京大学予備門]]に入学するも[[歴史]]科目のみ成績が極端に悪く、2年続けて[[落第]]したため[[退学]]処分となる。このため大学への正規課程への入学資格を持たず、[[1886年]][[帝国大学]]理科大学動物学科選科に入学する。[[1891年]]から3年間[[ドイツ]]に留学し、フライブルク大学で[[アウグスト・ヴァイスマン]]及びに、またライプチッヒ大学で[[カール・ロイカルト]]に師事する。帰国した翌年の[[1895年]][[山口高等学校 (旧制)|山口高等学校]]教授に、その2年後の[[1897年]][[東京高等師範学校|高等師範学校]]教授に任命され、[[1929年]]に[[定年退官]]となり、[[東京文理科大学]]非常勤講師として勤める。
 
[[ヒル (動物)|蛭]]、[[ホヤ]]などの分類、発生について研究し、[[カンテンコケムシ]] ''Asajirella gelatinosa'' {{AUY|Oka|1891}}などを[[記載]]している。また、[[進化論]]の啓蒙活動に貢献し、[[1904年]]に日本の大衆向けに書かれた初の進化論の解説書である「[[進化論講話]]」を著す<ref>{{Cite journal|author=ゴダール、クリントン|year=2007年|title=「コケムシから哲学まで――近代日本の「進化論・生物学の哲学」の先駆者としての丘浅次郎」|url=https://web.tohoku.ac.jp/modern-japan/godart-kokemushi-kara-tetsugaku-made-2007/|journal=『日本哲学史研究』|volume=4|page=75-99 頁}}</ref>。それ以外にも「生物学講話」・「最新遺伝学」など[[旧制中学]]水準の[[生物学]][[教科書]]を多く執筆し、『丘浅次郎著作集』全5巻がある。[[1925年]][[帝国学士院]]会員、[[日本動物学会]]会長。