「利用者:たいすけ55/sandbox」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
50行目:
[[]]
== 生涯 ==
[[File:1909 Ishikawa Setsuko.jpg|thumb|350px300px|right|家出期間中の節子と堀合の家族。前列右より、堀合了輔、工藤その、石川京子、祖母キン、堀合ろく子、母の堀合とき子、堀合克巳、石井京。後列右より、堀合赳夫、父の堀合忠操、堀合孝子、堀合忠直、堀合ふき子、節子、高橋ノシ、宮社フシ(明治42年10月)]]
=== 死 ===
大正2年4月13日、浅草の等光寺において、与謝野寛、[[北原白秋]]、金田一京助、土岐哀果らを発起人として、61名が出席して啄木の一周忌の追悼会が行われた。この会で去る3月23日に、函館の啄木未亡人節子の代理として[[函館市中央図書館|函館図書館]]の[[岡田健蔵]]が上京して、等光寺に埋葬してあった啄木とカツの遺骨を、函館に持ち帰ったことを報告した<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] pp.82-85</ref>。一方、函館図書館でも同じ日に啄木の一周忌の追悼会が催されている。宮崎郁雨、岡田健蔵が幹事となり、堀合忠操、斎藤大硯、岩崎正ら20名あまりが出席している<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] p.88</ref>。この来会者の席上で、啄木と面識のない斎藤咀華が写真を参考にし、宮崎ら友人たちの意見も取り入れて、描いた肖像画の油絵が披露されている<ref name="山下157">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.157</ref>。追悼会の数日後、「苜蓿社」時代の啄木の友人・岩崎正は、この絵を一目節子に見せようと、岡田健蔵と連れだって病院を訪ねた<ref name="山下157" /><ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.214</ref>。岡田は絵を前にして、当日の様子について詳しく話し、これを機会に啄木会として「啄木文庫」を創設し、啄木の関係資料の収集や保存をしていくことを約束している。節子は啄木が残した日記、書簡および遺稿など一切を「啄木文庫」に託すことを言い残したと伝えられる<ref>[[#坂本(1998)|坂本(1998)]] p.464</ref>。病室の節子は痩せ衰え、正視できないほどだった。岩崎は節子が絵に見入るときの様子を、手記にこう書き記している<ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] pp.214-215</ref>。